読み物
都市と農は、もともと切り離せないものでした。城壁の内に菜園があり、街の縁で家畜が飼われ、人びとは目の前で食べ物を育てていた。「アーバンファーム」という言葉が新しく聞こえても、その営みは人類の都市と同じくらい古い。ここでは、市民が街で食べ物を育ててきた歴史を、社会改良・戦争・危機・コミュニティ・政策という視点からたどります。
01 · 〜18世紀 / Pre-1800s
都市と農は、もとはひとつだった
近代以前、都市は内部に農を抱えていた。
古代から中世にかけて、都市は壁の内外に菜園・果樹園・家畜を抱え、新鮮な食料の多くを自前でまかなっていた。市場は近郊の畑とつながり、生ごみや排せつ物は肥料として土に戻る——都市と農地のあいだには、いまよりずっと短い距離と密な循環があった。
農を都市から押し出したのは、19世紀の産業化と鉄道だった。安い食料が遠くから運ばれ、地価が上がり、農は『都市の外にあるもの』へと追いやられていく。市民農業の歴史は、この分離への、ささやかな抵抗としても読める。
02 · 1860s–1900s
産業都市と、市民農園の誕生
過密と貧困のなかで、土を分け与える運動が生まれた。
産業革命の都市は、煤煙と過密と栄養不足に苦しんでいた。1864年、ドイツ・ライプツィヒで、医師ダニエル・G・M・シュレーバー(1808–1861)の名を冠した協会が、子どもが体を動かす遊び場をつくる。その縁で親たちが花壇を育てはじめ、やがて区画化された菜園——シュレーバーガルテン——へと育っていった。これが今日のドイツの市民農園(クラインガルテン)の源流とされる。
同じころ英国でも、土地を持たない労働者に小区画を貸す『アロットメント』が広がり、1908年の法律で自治体に提供が義務づけられていく。市民農園は当初から、健康・道徳・自給という社会改良の思想と固く結びついていた。
おもなできごと
- 1864ライプツィヒでシュレーバーガルテン運動が始まる
- 1908英国で小規模保有地・市民農園法が成立
03 · 1890s–1900s
田園都市の夢と、不況の『ポテト・パッチ』
理想の都市像と、危機の応急策。二つの源流が交わる。
1893年の金融恐慌で、デトロイトの失業率は40%を超えた。1894年、市長ヘイゼン・ピングリーは市域の空き地約430エーカーを耕作に開放し、失業世帯にジャガイモなどを育てさせる。初年度に約945世帯が参加し、約1万4千ドル相当の食料を収穫した。この『ポテト・パッチ・プラン』は各地に広がり、のちの戦時菜園の発想にもつながっていく。
一方、1898年にエベネザー・ハワードが提唱した田園都市構想は、都市と農村の長所を併せ持つ計画都市を描いた。農地の帯(グリーンベルト)に囲まれた都市というビジョンは、20世紀の都市計画と、都市に農を組み込む発想に大きな影響を与えた。
おもなできごと
- 1894デトロイト市長ピングリーの『ポテト・パッチ』
- 1898エベネザー・ハワードが田園都市構想を発表
04 · 1914–1945
戦争と『勝利農園』
非常時、街じゅうが畑になった。
二度の世界大戦は、市民農業を国家的な運動へと押し上げた。食料の輸送と供給が逼迫するなか、政府は空き地・公園・裏庭・屋上での栽培を奨励する。英国の『Dig for Victory』はその象徴だった。
米国では第二次大戦中に勝利農園(Victory Gardens)が2,000万区画を超え、1944年には国内の野菜のおよそ40%を供給したとされる。市民が食料生産の確かな担い手になりうることを、戦争という極限が証明した。
おもなできごと
- 1939–45英国『Dig for Victory(勝利のために掘れ)』運動
- 1944米国の勝利農園が野菜生産の約40%を担う
05 · 1945–1980s
郊外化のあとに——コミュニティガーデンの再生
荒れた空き地から、市民が街の農を取り戻す。
戦後、豊かさと郊外化のなかで市民農業はいったん退潮する。だが1970年代、財政危機と空き地の荒廃に直面した都市で、それは草の根から甦った。1973年、ニューヨークでリズ・クリスティらは『グリーン・ゲリラズ』を結成し、バワリーとヒューストン通りの放置された区画を月1ドルで借り受け、翌1974年にかけて約60の菜園ベッドをもつ庭へと変えた。
この成功は各地に飛び火し、放棄された都市の土地を市民が農地として取り戻す運動を広げた。やがてニューヨーク市のGreenThumbのような公的な支援制度へとつながっていく。市民の自発性と、それを支える制度。この二つの関係は、現在まで続く都市農の主題になった。
おもなできごと
- 1973–74リズ・クリスティとグリーン・ゲリラズがNYで初のコミュニティガーデン
06 · 1990s
危機が生んだ都市農業——キューバの実験
石油も輸入も絶たれた島で、都市が自らを養った。
1991年のソ連崩壊で、キューバは石油・肥料・輸入食料を一気に失った。『特別期間』と呼ばれるこの危機のなか、市民は空き地・屋上・バルコニーを耕しはじめる。政府も有機・低投入の都市農場『オルガノポニコ(organopónico)』を後押しし、1995年にはハバナだけで2万6千を超える菜園・農場が生まれた。
2002年には、ハバナの新鮮な野菜のおよそ90%が都市と近郊の農場でまかなわれたとされる。外部条件が崩れたとき、都市農業が食料安全保障の中核になりうることを、キューバは身をもって示した。
おもなできごと
- 1991ソ連崩壊後の『特別期間』が始まる
- 2002ハバナの新鮮野菜の約90%を都市農場が供給
07 · 1970s–2000s
見えない主流——グローバルサウスの都市農業
統計に載らないまま、南の都市では農が暮らしを支えつづけていた。
欧米や日本で市民農園が『余暇』や『コミュニティ』の文脈で語られていたころ、アフリカ・アジア・ラテンアメリカの都市では、農はもっと切実な営みだった。1970〜80年代、急速な都市化と経済危機のなかで、ダルエスサラーム、ナイロビ、カンパラといった都市の住民は、空き地や道路脇、川沿いを耕して家計と食卓を支えた。多くは制度の外にある『インフォーマル』な農業で、行政からはしばしば黙認か取り締まりの対象ですらあった。
この『見えない主流』に光を当てたのが、都市計画家ジャック・スミットらによる1996年の国連開発計画(UNDP)報告書『都市農業——食料・仕事・持続可能な都市』だった。世界で数億人が都市農業に携わっているという推計は、都市の農を『途上国の一時的な現象』から『都市の食料安全保障の柱』へと再定義し、FAOなど国際機関の支援プログラム——たとえばセネガル・ダカールのマイクロガーデン——にもつながっていく。
2001年の経済危機で貧困率が急上昇したアルゼンチンでは、ロサリオ市が翌2002年に都市農業プログラム(PAU)を立ち上げ、低所得世帯に公有地・私有地の遊休地を開放した。菜園は市の緑地計画に組み込まれ、『ウエルタ公園』として恒久化される。この取り組みは2020–21年のWRI都市賞グランプリを受賞し、危機対応から生まれた都市農業が都市計画の中核になりうることを世界に示した。
おもなできごと
- 1996国連開発計画(UNDP)が報告書『都市農業——食料・仕事・持続可能な都市』を刊行
- 2002アルゼンチン・ロサリオ市が都市農業プログラム(PAU)を開始
08 · 1945–2015
日本の都市農の歩み
戦後の自給菜園から、市民農園、そして『守る』制度へ。
戦後の食糧難の時期、日本の都市でも空き地は盛んに耕された。高度成長期には市街化のなかで都市の農地が急速に失われ、一方で市民が区画を借りて楽しむ『市民農園』が広がっていく。
1974年の生産緑地法は、市街化区域内の農地を税制で守る枠組みをつくり(現行の形は1991年改正)、農家が指導する『体験農園』など新しい形も生まれた。2015年の都市農業振興基本法は、都市の農地を『宅地化すべきもの』から『都市にあるべきもの』へと位置づけを転換する。日本の都市農は、いまも制度とともに更新されつづけている。
おもなできごと
- 1974生産緑地法(市街化区域内農地の保全)
- 2015都市農業振興基本法
09 · 2000s–present
屋上・政策・気候——いまのアーバンファーム
食だけでなく、つながり・生態系・レジリエンスのために。
21世紀の都市農業は、食料生産を超えた多面的な価値で語られるようになった。コミュニティづくり、食育、生物多様性と送粉者、雨水管理やヒートアイランドの緩和、福祉や高齢者の居場所——気候変動と都市のレジリエンスの文脈で、その役割が見直されている。
2008年に英国トッドモーデンで始まった『Incredible Edible』は、街の公共空間を誰もが収穫できる菜園に変えた。2010年代にはブルックリン・グランジのような商業的屋上農園が登場し、各国・自治体は都市農業を政策として制度化していく。本データベースが集める事例・研究・制度・イベントは、すべてこの長い歴史の延長線上にある。
おもなできごと
- 2008英国でIncredible Edible(食べられる街)運動
- 2010ニューヨークにブルックリン・グランジ(屋上農園)
歴史は、いまも書き継がれています。本データベースの事例・研究・制度・イベントは、この長い流れの『現在』のページです。