屋上庭園の系譜——思想から技術へ、そして百貨店の屋上へ
1867年のベルリンから1907年の日本橋まで——屋根に土を載せる発想は、三度べつべつに始まった
2026-07-28 · 24 分
特集 · 屋上という農地3 / 7
昨日の第2回「重さと水の設計」では、屋上農園を荷重・防水・排水・灌水という設備の問題として読みました。では、その技術体系はどこから来たのでしょうか。屋根に土を載せるという発想は、ひとつの源流から枝分かれしたのではありません。少なくとも三度、まったく別の動機で、別の場所から始まっています。第一が1867年のベルリン。左官職人カール・ラビッツが火災と耐久性の観点から緑化された平屋根を提唱し、同年のパリ万国博覧会でそれを展示しました。第二が1927年のシュトゥットガルト。ル・コルビュジエが「新しい建築の五つの要点」の第二点に屋上庭園を掲げ、建物が奪った地面を屋根の上に返すという思想を与えました。第三が1903年から1907年にかけての東京。白木屋と三越が屋上に遊戯室と「空中庭園」を設け、屋上を庭ではなく売場として発明しました。本記事はこの三本の系譜を辿り、それらが戦後ドイツで一本の技術体系に束ねられ、そして日本では別の運命——遊園地としての全盛と、火災による退場——を辿ったことを確かめます。昨日見た数字と規格が、どんな来歴を背負っているのかを見る回です。
3分でわかる本記事の内容
- 屋根の緑化は環境思想から始まったのではない。1867年、ベルリンの左官職人カール・ラビッツ(1823–1891)は『火山セメントによる自然屋根』を刊行し、同年のパリ万国博覧会で緑化した平屋根を展示した。動機は防火と耐久性である。
- 屋上庭園を「思想」にしたのはル・コルビュジエだった。1927年にヴァイセンホーフで示された「新しい建築の五つの要点」の第二点が屋上庭園であり、鉄筋コンクリートの陸屋根は建物が占めた地面を返すために使うべきだとされた。
- 技術体系としての屋根緑化は、戦後ドイツで組み上がった。FLLは1975年に設立され、屋上緑化の指針は1982年に初版が出たとされ、2018年版まで改訂が重ねられた。現在ドイツの屋根のおよそ1割が緑化されていると推定される。
- 日本の屋上は庭ではなく売場として始まった。1903年に白木屋が遊戯室を、1907年に三越が約60坪(およそ198平方メートル)の「空中庭園」を開き、噴水・池・藤棚・盆栽・廻転パノラマ・望遠鏡を備えた。
- その文化を閉じたのは需要ではなく火だった。1972年の千日デパート火災と1973年の大洋デパート火災を受けた消防法の改正により屋上の半分を避難区域として確保することが義務づけられ、2023年10月時点で日本百貨店協会加盟170店舗のうち屋上遊園地の営業は5店舗にとどまる。
- 本記事の立場は、屋上農が「新しい試み」ではなく再訪だということである。屋根の上は一世紀にわたって使われ、そして手放された場所であり、いま問うべきは何を新しく発明するかではなく、なぜ一度失われたのかである。
はじめに
屋上に土を載せる発想は、一度ではなく三度始まった
技術の歴史はふつう、一本の川として語られます。誰かが発明し、誰かが改良し、やがて標準になる。ところが屋上緑化の歴史は、そのようには流れていません。屋根に土を載せるという行為は、少なくとも三度、まったく別の動機で、互いを知らないまま始まっています。防火のために始めた者がいて、思想として掲げた者がいて、客を集めるために始めた者がいる。この三つは長いあいだ交わらず、それぞれの土地で別々に育ちました。昨日の第2回で見た荷重の計算も防根層の規格も、この三本のうちの一本——戦後ドイツの系譜——からしか出てきていません。
なぜ系譜を辿るのかというと、いま屋上農園を始めようとする人が受け取っているものが、どれか一本に偏っているからです。日本で「屋上緑化」と言えば環境性能の話になり、荷重と防水の規格の話になります。それはドイツの系譜です。一方で日本の屋上には、それとはまったく別の、百年を超える固有の歴史がある——遊園地であり、動物園であり、ビアガーデンであった歴史です。この二つは、いまのところほとんど接続されていません。屋上農園を「新しい取り組み」として語るとき、私たちは自国の屋上文化を丸ごと忘れていることになります。
本記事は三本の系譜を年代順ではなく、動機の順に並べます。まず防火と耐久性から出発した19世紀ドイツ。次に思想として屋上庭園を掲げた1920年代の近代建築。そして商業として屋上を発明した20世紀初頭の日本。そのうえで、この三本が戦後ドイツで一本の技術体系に束ねられていく過程と、日本の屋上が別の理由で閉じていった過程を並べて見ます。最後に、閉じたはずの日本の屋上が2000年代に別のかたちで再び開いたことを確かめます。
第一の系譜
1867年、ベルリン——防火から始まった緑の平屋根
カール・ラビッツ(1823年12月22日ハレ生まれ、1891年4月10日ベルリン没)は、建築史ではふつう「ラビッツ工法」の発明者として知られます。木の梁の下に金網を張り、そこに漆喰を塗って耐火性の天井をつくる技法で、1864年に特許を得ました。彼の関心は一貫して火にあります。19世紀の都市は木造と可燃物の集積であり、屋根は火の粉を受け止める最も危険な面でした。ラビッツはその屋根を、土と植物で覆うことを提案します。1867年、彼は『火山セメントによる自然屋根』(Naturdächer von vulkanischem Cement)と題する小冊子を刊行し、同じ年のパリ万国博覧会で緑化した平屋根を展示しました。
ここで注意しておきたいのは、動機の順序です。ラビッツにとって緑は目的ではなく手段でした。土と植物の層は、火の粉から屋根を守り、防水層を紫外線と温度差から守り、屋根の寿命を延ばす。景観や生きものや冷却は、あったとしても副次的な理屈です。19世紀のドイツで平屋根の緑化が広まったのも、環境意識ではなく、この実用的な理由によります。防水材として使われたタールやセメントの層は日射と温度変化に弱く、その上に砂利や土を載せて保護するのは、当時としてはごく合理的な工法でした。屋上緑化は、はじめは「緑化」ではなく「屋根の保護」だったのです。
この出発点は、いまでも屋上の設計に影を落としています。昨日見たとおり、屋上緑化の断面で最も切実な層は防水層と耐根層であり、植物はその上に載る最後の一枚にすぎません。緑が主で建物が従なのではなく、建物を守る仕組みの上に緑が乗っている——ラビッツの順序は、150年以上たったいまも逆転していないのです。屋上農園を検討するとき、最初に建物側の都合から入らなければならない理由も、突き詰めればここに行き着きます。
第二の系譜
1927年、ヴァイセンホーフ——屋上庭園が思想になった日
ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレが「新しい建築の五つの要点」を示したのは、1927年、シュトゥットガルトのヴァイセンホーフ・ジードルングにおける講演でした。改訂されたテキストは1929年、『作品全集』第1巻に収録されます。五つの要点とは、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードです。屋上庭園が第二点に置かれていることの意味は小さくありません。それは装飾でも余得でもなく、鉄筋コンクリート造がもたらした陸屋根をどう使うかという、構造から直接導かれる帰結として提示されました。
コルビュジエの論理は二重でした。ひとつは実用です。陸屋根は勾配屋根と違って使える平面であり、そこを組織的に住まいの用に供するべきだとされます。土と植物の層が屋根スラブを温度変化から守り、建物に一定の温度と湿度を与えるという、性能上の説明も伴っていました。もうひとつは思想です。建物は地面を占有する。その占有した面積を、屋根の上に返す——建蔽された緑を高さの方向で回復するという発想が、屋上庭園に与えられました。ヴィラ・サヴォワ(1928–1931年)の屋上テラスは、この考えが最も明快に建ったものとして知られます。
ただし、この系譜が残したのは主として言葉であって、技術ではありませんでした。近代建築の屋上庭園は、防根や排水の規格を伴っていません。実際、コルビュジエの建築の多くは後年、屋根からの漏水に悩まされたことが知られています。思想としての屋上庭園は世界中の建築家に受け継がれ、そのたびに現場は個別に防水と格闘しました。「屋根の上に庭を」という規範だけが先に普及し、それを支える技術の標準化は、まったく別の場所で、半世紀近く遅れて進むことになります。
商業の屋上
1930年代、ニューヨークとロンドン——屋上庭園が集客装置になる
近代建築が屋上庭園を思想として語っていたのと同じ時期に、アメリカとイギリスでは屋上庭園がまったく別の役割を与えられていました。集客です。ニューヨークのロックフェラー・センターでは1935年4月、RCAビル(30ロックフェラー・プラザ)の11階におよそ0.75エーカーの屋上庭園が開園します。設計は造園家ラルフ・ハンコックとレイモンド・フッド。13か国それぞれの庭園様式に着想した区画が並び、中央の「インターナショナル・ガーデン」には流れと2,000種の植物が置かれ、ほかに子どもの区画、モダンな様式の庭、そして菜園がありました。衣装をまとった案内係が常駐し、夜間は植栽が照明で照らされ、入場は有料でした。屋上庭園は思想としてではなく、採算の見込める設備として建てられていたのです。ただしその寿命は短く、13か国の庭は1938年までに取り壊されています。
この庭を見たバーカーズ社の経営者トレヴァー・ボウエンが、同じハンコックをロンドンに招きます。ケンジントンの百貨店デリー・アンド・トムズの屋上に、1936年から1938年にかけて造られたのが、いわゆるケンジントン・ルーフ・ガーデンです。面積はおよそ6,000平方メートル(65,000平方フィート)、費用は25,000ポンド。スペイン庭園、チューダー庭園、イングリッシュ・ウッドランドの三区画に分かれ、100種を超える樹木が植えられ、池にはフラミンゴが放たれました。1938年5月9日の開園時には、単一の屋上庭園として世界最大とされています。1976年には樹木に保存命令が出され、1998年には登録historic parks and gardensのグレードIIに指定されました。
この二つの屋上は、構造の面でも示唆的です。デリー・アンド・トムズの屋根は1平方フィートあたり1ハンドレッドウェイトの荷重を支えるよう設計され、下に排水が設けられたとされます。換算するとおよそ550キログラム毎平方メートルで、昨日確認した厚層型緑化の重量域——390〜730キログラム毎平方メートル——のほぼ中央に収まります。ロックフェラー・センターの庭も同様に重く、造成には3,000ショートトンの土、100ショートトンの石、10万個のれんが、2,000本の樹木と低木、4,000株の小さな植物、2万球の球根が投入されました。土だけを0.75エーカーで単純に割ればおよそ900キログラム毎平方メートルに相当する計算になりますが、実際には均一に敷かれたわけではないので、あくまで規模感を示す数字です。
第一の系譜の帰結
戦後ドイツ——屋根緑化が「工法」から「規格」になる
屋上庭園が世界各地で個別の作品として建てられていた時代は、1960年代に終わります。その最後の大作のひとつが、オークランドのカイザー・センターの屋上庭園です。設計はセオドア・オスマンドソン・アンド・アソシエイツ、完成は建物と同じ1960年頃で、エドガー・カイザーがロックフェラー・センターの庭に着想を得たものとされ、第二次世界大戦後のアメリカで最初に造られた屋上庭園と記されています。しかしこの系譜——大規模で高価な一品生産——は、屋根の1割を緑にはできません。数を増やすには、安く、軽く、手のかからない工法と、それを誰が施工しても同じ品質になる規格が要ります。それを担ったのがドイツでした。
戦後ドイツの屋根緑化は、作品ではなく研究から立ち上がりました。ベルリンでは1961年にラインハルト・ボルンカムが屋根の植生に関する研究を発表したとされ、1970年前後にはゲルダ・ゴルヴィツァーとヴェルナー・ヴィルジングらによって、防根材・防水シート・植栽基盤・排水層といった構成材の研究が進められたとされます。1970年代末には、薄く軽い薄層型(extensive)緑化が確立します。庭ではなく被覆として屋根を緑にする——この発想の転換が、単価と重量を同時に下げ、普及の条件を作りました。昨日見た軽量人工土壌の思想は、ここから来ています。
規格化がこれを追いかけます。造園開発研究協会(FLL)は1975年に設立され、屋上緑化の指針は1982年に『屋上緑化の原則』として初版が出たとされ、1992年以降は『屋上緑化の計画・施工・維持管理のための指針』として改訂が重ねられました。昨日触れた2018年版もこの系譜に属します。FLLの指針は法令ではありませんが、ドイツ国内では事実上の基準として扱われ、各国の規格の下敷きにもなりました。結果として、ドイツの屋根のおよそ1割が緑化されていると推定されるまでになります。ラビッツの防火の工夫は、こうして115年後に、業界全体を律する文書になったのです。
第三の系譜
1903年、日本橋——屋上は庭ではなく売場として発明された
日本の屋上文化は、思想からも防火からも始まっていません。商売から始まりました。1903年(明治36年)、日本橋の白木屋呉服店が店内にシーソーや木馬を置いた遊戯室を設けたのが起源とされます。1907年(明治40年)には、日本橋の三越が「空中庭園」と銘打った屋上庭園を開きました。およそ60坪——約198平方メートル——の敷地に、噴水、池、藤棚と盆栽、廻転パノラマ、望遠鏡が置かれています。同じ1907年には松屋神田店が屋上遊覧所を設け、1912年(大正元年)には大丸京都店が屋上にローラースケート場と音楽堂を置きました。
設備は年々大きくなります。1923年(大正12年)、松坂屋銀座店は開店時に屋上へ動物園を開き、ライオンや豹を置きました。1931年(昭和6年)11月には松屋浅草店が「スポーツランド」を開園し、小動物園と自動木馬に加えて、8人乗りのロープウェイ「航空艇」を設置しています。屋上は買い物のついでに立ち寄る場所ではなく、それ自体が来店の目的になりました。戦後の復興も早く、松屋浅草店は1946年に1階150坪でスポーツランドを再開し、1949年には複式飛行塔を屋上に、1950年には60人乗りの「スカイクルーザー」を登場させています。
重要なのは、この系譜が土や植物を主題にしていないことです。三越の「空中庭園」は庭でしたが、その後の展開は遊戯施設と動物と食堂に向かいました。ドイツが屋根を「保護すべき面」として扱い、近代建築が「返すべき地面」として扱ったのに対し、日本の百貨店は屋上を「もう一つの階」として扱ったのです。この違いは、いまも効いています。日本の屋上に人が上がることへの抵抗が小さいのは、屋上が長らく公共に近い商業空間だったからであり、逆に日本の屋上に技術規格の蓄積が薄いのは、そこが農地としても緑化面としても扱われてこなかったからです。
退場
屋上を閉じたのは需要ではなく、火だった
屋上遊園地の全盛期は、昭和30年代初めから昭和40年代半ばにかけてとされます。その後の衰退を説明するとき、ふつうはテーマパークとゲームセンターの台頭が挙げられます。それは事実ですが、決定的だったのは制度でした。1972年の千日デパート火災と1973年の大洋デパート火災という二つの大惨事を受けて消防法が改正され、屋上の半分を避難区域として確保することが義務づけられたのです。屋上面積の半分が使えなくなれば、大型遊具を置く商業的な合理性は成り立ちません。屋上遊園地は、客に飽きられる前に、法によって面積の半分を失いました。
結果は数字にはっきり出ています。2023年10月時点の調査で、日本百貨店協会に加盟する全170店舗のうち、屋上遊園地を営業していたのは5店舗——松坂屋高槻店、松坂屋名古屋店、大和香林坊店、いよてつ高島屋、浜屋百貨店——にとどまりました。百年をかけて築かれた屋上文化は、実質的に消えたと言ってよい水準です。そして重要なのは、消えた原因が「屋上が使えなくなったから」ではないことです。屋上は残っています。使い方だけが失われたのです。
この経緯は、本特集が初日から繰り返している論点をもう一度裏づけます。屋上に何が載るかを決めているのは、需要でも技術でもなく制度だという論点です。第1回では、東京都の条例が2001年に緑化計画書の届出を義務づけたことで屋上緑化が立ち上がり、トロントの義務づけが2025年10月に撤回されたと報じられたことを見ました。ここではその逆向きの例——制度が屋上の用途を奪った例——を見ていることになります。屋上は、制度が開けば開き、制度が閉じれば閉じる面なのです。
再訪
2000年代、銀座——屋上が生産の場として戻ってくる
閉じたはずの日本の屋上が再び開くのは、遊園地としてではなく生産の場としてでした。2006年3月28日、東京・中央区銀座三丁目の紙パルプ会館の屋上、地上およそ45メートルの高さで、セイヨウミツバチの飼育が始まります。銀座ミツバチプロジェクトです。採蜜量は2006年のおよそ150キログラムから、2007年に約260キログラム、2008年に約430キログラム、2009年には約800キログラムへと伸びました。ミツバチの行動圏はおよそ2キロメートルとされ、皇居、浜離宮恩賜庭園、日比谷公園がその圏内に入ります。2010年3月8日には銀座二丁目のマロニエゲートに第二の養蜂場が設けられました。
この取り組みは養蜂にとどまりませんでした。東京都環境局の紹介によれば、2024年シーズンの採蜜量はおよそ2.7トンに達し、蜂蜜は地産地消の商品として百貨店や飲食店に納入されています。活動は屋上緑化そのものの推進、サツマイモの栽培と焼酎への加工、和紙原料となる樹木の栽培へと広がり、環境教育にはこれまでに18,000人以上が参加したとされます。広島や岡山での養蜂支援など、各地への展開も進みました。第1回Tokyo-NbSアクションアワードの優秀賞を受けています。
この事例が百年の系譜のなかで持つ意味は明確です。日本の屋上は、庭として使われた期間より、売場と遊戯施設として使われた期間のほうがはるかに長い。その屋上に、生産という新しい用途が2000年代になって加わりました。しかも担い手は百貨店ではなく街の側の有志であり、動機は集客ではなく、街との関係づくりです。そして採れた蜂蜜は百貨店に納められる——かつて屋上遊園地を抱えていた場所へ、屋上の産物が売場として戻っていくわけです。屋上の用途は、商業から遊戯へ、そして消滅を経て生産へと書き換えられてきました。屋上農園は新しい発明ではなく、空いた面の四度目の使い方なのです。
振り返り
三本の系譜が教えるのは、屋上には正統がないということ
本記事は、屋上に土を載せる発想を一本の技術史として語らず、動機の異なる三本の系譜として辿りました。第一が防火と耐久性の系譜です。カール・ラビッツ(1823–1891)は1864年にラビッツ工法の特許を得た左官職人であり、1867年に『火山セメントによる自然屋根』を刊行して、同年のパリ万国博覧会で緑化した平屋根を展示しました。第二が思想の系譜です。ル・コルビュジエとピエール・ジャンヌレは1927年、ヴァイセンホーフ・ジードルングでの講演で「新しい建築の五つの要点」を示し、その第二点に屋上庭園を置きました。第三が商業の系譜で、1903年の白木屋の遊戯室と1907年の三越の「空中庭園」に始まります。そのうえで、第一の系譜が戦後ドイツで規格に結実する過程と、第三の系譜が日本で消滅する過程を並べて見ました。
とりわけ重要な論点を三つ、名指しで言い直します。第一に、屋上緑化の技術は環境思想の産物ではないこと。出発点は1867年の防火と屋根保護であり、緑は手段でした。第二に、思想と技術が別々に広まったこと。コルビュジエの1927年の五つの要点は規格を伴わず、規格のほうはドイツで半世紀近く遅れて整いました。FLLは1975年に設立され、指針は1982年に初版が出たとされ、2018年版まで改訂が続き、いまドイツの屋根のおよそ1割が緑化されていると推定されます。第三に、日本の屋上を閉じたのが制度だったこと。1972年の千日デパート火災と1973年の大洋デパート火災を受けた消防法の改正で屋上の半分が避難区域とされ、2023年10月時点で日本百貨店協会加盟170店舗のうち屋上遊園地の営業は5店舗にとどまります。
同時に、わかっていないことと留保を明示しておきます。ドイツの研究史については、ボルンカムによる1961年の研究やゴルヴィツァーらによる1970年前後の構成材研究、FLL指針の1982年初版という記述を、本稿の執筆時点で原典まで遡って確認できていません。二次的な記述に依拠しており、年の細部には誤差がありうるものとして読んでください。「ドイツの屋根の約1割」という推定も、分母となる屋根総面積の定義が明示されておらず、幅を持って受け取るべき数字です。デリー・アンド・トムズの1平方フィートあたり1ハンドレッドウェイトという設計荷重も、伝えられている記述であり、当時の構造計算書を確認したものではありません。想定される反論も正当です——三本の系譜という整理はあくまで説明の枠組みであり、実際には人と情報が国境を越えて往復していました。ハンコックがロックフェラー・センターからロンドンへ渡ったこと自体が、その反証になっています。系譜は独立していたのではなく、束ねられていなかっただけだ、と言うほうが正確でしょう。
特集「屋上という農地」の第3回として、本記事は昨日の第2回「重さと水の設計——屋上を農地に変える物理」が扱った規格と数値の来歴を明らかにしました。荷重の計算も防根の試験も、防火から出発し、ドイツで一世紀かけて標準化された系譜の産物です。ただし、この系譜がすべてを説明するわけではありません。ニューヨークの商業屋上農園、シカゴ市庁舎に始まる公共の実験、バーゼルの生物多様性型の屋根、シンガポールの食料安全保障型——同じ技術を使いながら、動機がまったく違う屋上が世界には並んでいます。明日の第4回では、この四つの動機を横断し、動機の違いが設計をどう分けるのかを確かめます。歴史から現在へ、そして日本から世界へと視点を移す回になります。
この記事の要点
- 屋上緑化は環境思想からではなく防火から始まった。1867年、カール・ラビッツは『火山セメントによる自然屋根』を刊行し、同年のパリ万国博覧会で緑化平屋根を展示している。
- 緑は最初から手段だった。土と植物の層は防水層を紫外線と温度差から守るために置かれたもので、この主従関係は150年以上たったいまも逆転していない。
- ル・コルビュジエの1927年の「五つの要点」は屋上庭園に思想を与えたが、規格は与えなかった。「屋根の上に庭を」という規範だけが先に広まり、技術の標準化は半世紀近く遅れた。
- 1930年代の屋上庭園は思想ではなく投資だった。デリー・アンド・トムズの屋上はおよそ6,000平方メートル、1平方フィートあたり1ハンドレッドウェイト——換算しておよそ550キログラム毎平方メートル——の荷重を想定して設計されたとされる。
- 屋根の1割を緑にしたのは大作ではなく規格だった。ドイツでは1970年代末に薄層型が確立し、FLLの指針が1982年に初版を出したとされ、以後の改訂が業界を律している。
- 日本の屋上は庭ではなく「もう一つの階」として発明された。1903年の白木屋の遊戯室、1907年の三越の「空中庭園」、1923年の松坂屋銀座店の屋上動物園——主題は一貫して集客だった。
- 屋上文化を終わらせたのは客ではなく法だった。1972年と1973年の二つのデパート火災を受けた消防法改正で屋上の半分が避難区域とされ、2023年10月時点で屋上遊園地の営業は加盟170店舗中5店舗にとどまる。
参考・出典
- Wikipedia (de), Carl Rabitz
- Wikipedia, Five Points of Architecture
- Wikipedia, Green roof
- Wikipedia, Kensington Roof Gardens
- Wikipedia, 30 Rockefeller Plaza (Gardens of the Nations)
- Wikipedia, Kaiser Center
- US EPA, Introduction to the German FLL-Guideline for the Planning, Execution and Upkeep of Green-Roof Sites
- Wikipedia (ja)「屋上遊園地」
- Wikipedia (ja)「銀座ミツバチプロジェクト」
- 東京都環境局「第1回Tokyo-NbSアクションアワード優秀賞 銀座ミツバチプロジェクトの取組」
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