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畑はこうして宅地になった——そして、一部は畑に戻っている

線を引いた国、開発権を買った国、そして値段が消えた土地。転用の歴史と、逆流が起きる条件

2026-08-14 · 22

特集 · アーバンファームと不動産3 / 7

農地から宅地への大きな転用と、空き地から農地への小さな逆流を示す図解

昨日の第2回は、農園の隣に住むと家の値段が上がるのか——ヘドニック法の推定値をめぐる研究の攻防を追いました。あの議論はすべて、「畑がそこにある」ことを前提にしています。本記事はその前提のほうを疑います。都市の畑は、そこに残ったのではなく、残された。あるいは残されなかった。日本では1968年の都市計画法が国土に一本の線を引き、線の内側の農地を「まだ宅地になっていない土地」として定義し直しました。イギリスは1955年の一片の通達でロンドン以外の都市にも緑の帯を巻く政策を成文化し、アメリカのいくつかの郡は農地を守るために「建てる権利」そのものを切り離して売買させました。そして転用は一方通行ではありません。デトロイトでは1区画あたり350ドルに満たない値段で空き地が農地に変わり、ライプツィヒでは所有者が建築の権利を一定期間行使しないと約束する代わりに、土地が緑になりました。ただし、この逆流には条件があります。戻ってくる土地は、たいてい市場価値を失った土地です。その非対称性が、本記事の主題です。

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3分でわかる本記事の内容

  • デトロイト市議会は2012年12月11日、5対4の僅差で約1,500区画・約140エーカーを52万ドルで売却する議案を可決した。報道は1区画あたり約300ドルと伝え、52万ドルを1,500区画で割れば約347ドルになる。買い手は少なくとも1万5,000本の広葉樹を植える条件を負った。
  • 日本は1968年の都市計画法で市街化区域と市街化調整区域を分けた。市街化区域は『おおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域』であり、そこに残る農地は制度上『これから宅地になる土地』として位置づけられた。
  • 三大都市圏の特定市では、生産緑地が平成5年の15,113haから平成28年の13,088haへ微減にとどまった一方、指定を受けなかった宅地化農地は30,628haから11,956haへと6割以上減った。線の内と外で運命が分かれている。
  • イングランドのグリーンベルトは2025年3月31日時点で1,633,220ha、国土の約12.5%。ただし前年比660ha(0.04%)の純減で、うち650haは6自治体が地方計画を改定したことによる。線は動かせる。
  • メリーランド州モンゴメリー郡は1980年に93,000エーカーの農業保全区域を設定し、開発権を成長地域へ売る仕組み(TDR)を組み込んだ。これまでに5万2,000エーカー超が保全され、開発権の購入で1億1,700万ドルの民間資金が動いた。
  • ベルリンでは2014年5月25日の住民投票で旧テンペルホーフ空港跡地の建設禁止が成立した。賛成739,124票。市場価値の高い都市で土地を農と緑に留めるには、条例ではなく投票という高いコストが必要だった。

はじめに

1区画347ドル——畑が都市に戻ってくるときの値段

2012年12月11日、デトロイト市議会は5対4という僅差で一つの土地取引を承認した。市の東側に散らばる約1,500の空き区画、面積にして約140エーカーを、52万ドルで一つの事業者に売る。単純に割れば1区画あたり約347ドル。日本円にすれば数万円である。買い手は空き家を50棟以上解体し、生育期には3週間ごとに草を刈り、少なくとも1万5,000本の広葉樹を植えるという条件を負った。取引は翌2013年10月17日、州が送り込んだ緊急管財人と知事の署名を経て確定した。畑と林が都市に戻ってきた、といえば聞こえはいい。だがこの取引が成立したのは、その土地が住宅地として値段をつけられなくなっていたからだ。

この記事が扱うのは、その逆の動きの、はるかに大きな半分である。20世紀の都市はほぼ例外なく、農地を食べて広がった。日本では高度経済成長期に市街地が郊外へ無秩序に外延化し、道路も公園もないまま宅地が張り付いていった。その反省から1968年に新しい都市計画法が生まれ、国土に一本の線が引かれる。イギリスは1955年、一片の通達で首都を帯で囲んだ。アメリカの一部の郡と州は、農地の上にある『建てる権利』を土地から切り離し、別の場所へ移して売らせるという発想にたどり着いた。手法は違うが、問題意識は同じだった——放っておけば、畑は必ず宅地になる。

本記事の主張

転用は一方通行ではない。ただし戻る土地は選べない

「都市化は不可逆だ」という言い方は、半分しか正しくない。デトロイト、ライプツィヒ、そして日本の地方都市の一部では、いったん宅地や工場になった土地が、更地を経て、畑や林や草地に戻っている。土地利用の転換は物理的には双方向である。だが、双方向であることと、対称であることは違う。宅地への転用は、土地の価格が上がる方向に起きる。農地への逆流は、価格が下がりきった土地でしか起きない。前者は所有者の利益で駆動し、後者は所有者の損失処理として起きる。この非対称性を見落とすと、「空き地が増えるから都市農業のチャンスだ」という危うい楽観に着地してしまう。

以下では、まず転用を止めようとした三つの制度設計——日本の線引き、イギリスのグリーンベルト、アメリカの開発権取引——を、それぞれの年号と面積で確認する。次に、戦時に爆発的に増えた市民農園が平時にどう消えたかを見て、逆流の前史を押さえる。そのうえで縮退都市が編み出した仕組み——ライプツィヒの利用許諾協定と、デトロイトの管理責任の移転——を読み、最後に、この非対称性が日本の実務者にとって何を意味するかに降ろす。反論の節も一つ置く。戻ってきた土地は、本当に農地なのか、という疑いである。

日本

1968年、日本の農地は「まだ宅地でない土地」になった

国土交通省の制度解説は、線引き制度が生まれた背景をこう書いている。昭和30年代後半から40年代にかけての高度経済成長のなかで人口と産業が都市に集中し、郊外部で無秩序に市街化が進み、道路や公園といった基本的な施設が整わないまま市街地が形成される弊害が起きた——と。その処方箋が、1968年(昭和43年)の都市計画法による区域区分である。都市計画区域を市街化区域と市街化調整区域に分ける。市街化区域とは、すでに市街地を形成している区域と、『おおむね10年以内に優先的かつ計画的に市街化を図るべき区域』。市街化調整区域は市街化を抑制すべき区域で、原則として開発行為ができない。

ここで見落とされやすいのは、この線が農地に対して何をしたかである。市街化調整区域の農地は、開発を抑えられる代わりに農地として扱われ続ける。だが市街化区域に取り込まれた農地は、法の文言のうえで『10年以内に市街化を図るべき区域の中にある、まだ市街化していない土地』になった。畑であることは、その土地の現在の姿にすぎず、計画上の到達点ではない。制度が農地を守らなかったのではない。制度は、線の内側の農地を守らないと決めたのである。

この決定の重さが表面化したのが、その6年後の生産緑地法(1974年・昭和49年)である。農林水産省の経緯資料は、この法律が『市街化区域内の農地のうち、良好な生活環境の確保に相当の効用を持ち、かつ公共施設等の予定地として適している農地を計画的に保全する』ために制定されたと説明する。注目すべきは保全の理由づけだ。農業生産のためではなく、生活環境の効用と、将来の公園・学校・病院などの用地としての適性のためである。市街化区域の内側で畑を残す論理は、農政ではなく都市計画の言葉で組み立てられた。線引きと課税をめぐるその後の展開、とりわけ指定期限の問題は本連載の第5回が引き受ける。

線の内と外で運命が分かれたことは、面積の推移が示している。三大都市圏の特定市では、生産緑地に指定された農地が平成5年の15,113haから平成28年の13,088haへと微減にとどまったのに対し、指定を受けなかった宅地化農地は30,628haから11,956haへ、6割以上減った。全国の市街化区域内農地(生産緑地を除く)も、同じ期間に128,094haから58,535haへとおよそ46%まで縮んでいる。そして減った農地のおよそ6割は住宅用地に変わった。半世紀前に引かれた一本の線は、いまも土地の生死を分けている。

イギリス

帯は都市を止めたが、帯そのものが毎年少しずつ削られている

イギリスの手法は線ではなく帯だった。政府統計の技術解説によれば、最初の公式な提案は1935年、大ロンドン地域計画委員会が公共オープンスペースと行楽地の予備を確保し、オープンスペースの帯——グリーンベルト——を設けるべきだと述べたことに始まる。1947年の都市農村計画法によって、地方自治体は最初の開発計画にグリーンベルトの提案を組み込めるようになった。そして1955年、政策はロンドン以外の地域にも拡張され、通達によって成文化される。狙いは、大規模市街地の際限のない拡大を抑え、隣り合う町が互いに融合してしまうのを防ぐことだった。もともと市民が行楽に使う緑地として構想されたものが、ここで都市の拡大を止める障壁へと性格を変えている。

70年後、その帯は依然として巨大である。イングランドのグリーンベルト指定面積は2025年3月31日時点で1,633,220ha、国土のおよそ12.5%を占める。ロンドンを囲むメトロポリタン・グリーンベルトだけで全体の31.1%にあたる。ここまで広い土地を、半世紀以上にわたって開発から外し続けた制度は世界的にも珍しい。日本の線引きが『内側は市街化する』という宣言だったのに対し、イギリスの帯は『ここから先は市街化しない』という宣言だった。同じ土地利用計画でも、線の向きが逆である。

ただし、この帯は石でできてはいない。同じ統計は、2024年3月31日から2025年3月31日までの1年間にグリーンベルトが660ha、率にして0.04%純減したことも記録している。内訳は、地方計画の改定によるものが650ha、自治体の境界更新によるものが10ha。つまり減少のほぼ全部は、6つの自治体がそれぞれ計画を改定した結果として生じています。年0.04%は微々たる数字に見える。だが逆に言えば、住宅需要の圧力があれば、70年守られてきた指定でも地方計画の改定一回で外れる。制度が土地を守るのではなく、制度を守り続ける政治が土地を守っている。

アメリカ

土地を買わずに、建てる権利だけを買う——アメリカの回避策

アメリカの都市は、日本やイギリスのように国が線を引く仕組みを持たない。土地利用規制は基本的に地方政府の権限であり、しかも私有財産権の観念が強い。農地を守るために建築を禁じれば、所有者は開発利益を失う。その損失に正面から向き合った答えが、開発権を土地から切り離して売買させる方式だった。メリーランド州モンゴメリー郡が1980年に採った手法がその代表例である。郡議会と計画委員会は、郡の土地のおよそ3分の1にあたる93,000エーカーを農業保全区域(Agricultural Reserve)に指定し、そこでの住宅開発密度を25エーカーに1戸へと大幅に引き下げた。

ダウンゾーニングだけなら、これは単なる収用に近い規制強化である。仕掛けはその先にある。従前の規制は5エーカーに1戸だった。つまり所有者は、25エーカーに1戸へ落とされたことで失った差分の開発権を、郡が成長を誘導したい地域へ移して売ることができる。買い手はその権利を使って、指定された成長地域で密度を上げる。農村部の地主は失った資産価値の一部を取り戻し、開発はインフラの整った場所に集まる。郡の資料によれば、これまでに5万2,000エーカーを超える農地が保全され、開発権の購入を通じて1億1,700万ドルの民間資金が動いた。公費で土地を買い上げる方式(PDR)と違い、保全の原資を市場から引き出す設計である。

同じ年代、オレゴン州はまったく違う賭けに出ていた。1973年の上院法案100号(SB100)は州の土地利用計画委員会(LCDC)を設け、州全体の計画目標を定めさせ、市町村に都市成長境界(UGB)を引かせた。境界の内側は都市的利用、外側は農林地。目標3(農地)は、郡に農地を目録化し、排他的農業利用(EFU)ゾーンに指定することを義務づけた。1985年までに36郡すべてが目録を完了し、およそ1,610万エーカーがEFUに指定された。州の資料は、そのうち99%が現在もEFU指定のまま残っていると述べている。半世紀にわたって州全域の農地の面的な骨格を維持したという意味では、世界でも例の少ない持続である。

ただし両者の限界は、その到達点の裏側にある。モンゴメリー郡のTDRは、開発権の受け皿となる成長地域があって初めて機能する。受け皿が飽和すれば権利の価格は下がり、保全のエンジンは止まる。オレゴンのUGBは、境界の内側の地価を押し上げる構造を内包しており、住宅価格をめぐる政治的な反発を繰り返し招いてきた。農地を守る制度は、必ずどこかで住宅を建てにくくする。日本の線引きが市街化区域内の農地を犠牲にしたのと、コインの裏表である。

逆流の前史

戦争で畑は増える。平時になると、その畑から消えていく

都市の土地が一斉に畑に戻った経験は、20世紀に一度だけ、はっきりとある。戦時である。イギリスでは1939年10月に食糧省が『Dig for Victory』を掲げ、開戦時におよそ93万区画だった市民農園(allotment)は、省の統計で1943年に約140万区画へ膨らんだ。公園、球技場、鉄道敷地の脇、そして空襲で焼けた区画まで耕された。この時期に何が起きたかは本サイトの『災害とアーバンファーム』でも扱っているので繰り返さないが、ここで注目したいのは規模ではなく、その後である。

戦後、その畑はほぼ例外なく消えた。イギリスの市民農園は第二次大戦後、一貫して減り続け、下院図書館の資料によれば1996年から2006年までの10年間だけで50,630区画が失われている。減少の理由は複合的だが、根はひとつである。戦時の菜園の大半は、耕作者が所有していない土地の上にあった。公園であれ、鉄道用地であれ、住宅開発を待つ空き地であれ、それは非常時に貸し出された土地だった。平時が戻り、土地に再び値段がつけば、貸し手は貸すのをやめる。畑が消えたのは、市民が飽きたからというより、土地が畑に耐えられなくなったからだ。

この経験は、逆流を読む物差しになる。土地が畑に戻る条件は、耕したい人がいることではない。土地の他の用途から期待される収益が、耕作に耐えられる水準まで下がっていることである。戦時にそれを実現したのは、建築資材と労働力の欠乏、そして政府による強制的な用途の凍結だった。建てたくても建てられず、売りたくても買い手がいない状態を、政策が人為的につくり出したわけである。平時の都市で、それに相当する条件が自然に生まれる局面は一つしかない。都市そのものが縮んだときだ。人が減り、住宅が余り、区画に買い手がつかなくなったとき、土地は初めて畑に耐えられるほど安くなる。次に見る二つの都市は、その状態に半世紀近く付き合ってきた。

縮退都市

ライプツィヒとデトロイト——建築の権利を、しばらく使わないという契約

1990年代のライプツィヒは、東ドイツの崩壊とともに人口を大きく失い、住宅の空室と解体待ちの建物、そして歯抜けの街区を抱え込んだ。2002年には東部諸都市の再編プログラム(Stadtumbau Ost)に加わり、需要に合わせて住宅ストックを減らす作業が始まる。問題は、建物を壊したあとに残る空地だった。所有者は売れない土地の管理費だけを負い、放置された区画は街区の環境を悪化させる。市が編み出したのが『Gestattungsvereinbarung(利用許諾協定)』である。

仕組みは単純だが、思想は鋭い。所有者と市が協定を結び、その土地を緑地として整備し公衆に開放する。見返りに所有者は、協定の期間中、建築法典第34条に基づいて既に持っている建築の権利を行使しないことに同意する。所有権も、将来の建築可能性そのものも失われない。市の資料は、この協定によって荒れた土地の危険や景観の悪化が抑えられ、密集したグリュンダーツァイト期の街区の内部に、新たな公共・準公共の緑地や遊び場、駐車場の潜在的な可能性が生まれると説明している。土地を買い上げるのでも、収用するのでもなく、権利の行使を時間で区切って止める。都市が縮んでいる局面でだけ、所有者にとって割に合う取引である。

デトロイトの取引は、これをもっと剥き出しの形で示している。冒頭の1区画347ドルという単価は、その土地に住宅地としての将来がないと市場が判断した価格である。市議会が5対4で割れたのも当然で、反対側には『大量の土地が一事業者に安く渡る』という批判があった。買い手が負ったのは、解体、除草、植林という、本来は所有者や市が負担すべき土地管理のコストである。つまりこの取引の実質は、土地の売買というより、管理責任の移転に近い。値段が消えた土地を誰が抱えるかという問題に、農や林の事業者が答えを出した——それが逆流の正体だった。

この見方への反論

戻ってきた土地は、本当に農地なのか

ここまでの筋書きには、少なくとも三つの反論がある。第一に、逆流した土地の中身である。デトロイトの事例で植えられたのは広葉樹であって作物ではない。空き地を林にすることは景観と管理コストの問題を解決するが、食料生産にも、地域の農としての機能にも直結しない。「農地に戻った」と語るとき、私たちはしばしば緑になったことと耕作が始まったことを混同している。土地台帳の用途と、そこで実際に起きている営みは別物である。

第二に、安さで手に入る土地を歓迎する態度そのものへの批判がある。大量の空き区画が一事業者に低価格で移る取引には、地域の資産を安く囲い込む動きだという指摘が当時から出ていた。土地の値段が下がるということは、そこに住み続けている人の資産が失われ、税収が細り、行政サービスが劣化しているということでもある。都市農が入り込める余白は、誰かが被った損失の跡地である。この点で、緑化が既存住民を押し出す局面を扱った本サイトの『グリーン・ジェントリフィケーション』とは、ちょうど逆向きの倫理的な問題が立ち上がる。

第三に、制度で守られた農地の側にも同じ疑いが向く。日本の市街化区域内で保全された農地は、農業生産のためではなく、生活環境の効用と将来の公共用地としての適性を理由に残された。イギリスのグリーンベルトも、農業政策ではなく都市の拡大抑制の道具である。守られている土地の一部は、耕されている土地ではなく、建てられていない土地にすぎない。都市農の側から制度を語るとき、この区別を曖昧にすると、面積の統計が実態より大きく見える。

そのうえで、逆流が成立する条件をもう一段厳しく見ておきたい。ベルリンの旧テンペルホーフ空港跡地では、2014年5月25日の住民投票で建設を全面的に禁止する市民発議の法案が可決された。賛成739,124票。市場価値の高い都市で、広大な土地を建てないまま維持しようとすれば、条例でも計画でもなく、住民投票という最も重い政治的コストを支払う必要があったということである。値段の消えた土地はほとんど無料で戻ってくるが、値段のある土地を戻すには、その値段に見合うだけの政治が要る。

実務へ

空くのを待つのではなく、価格が沈む数年を捕まえる

日本の実務者にとって、この非対称性は悲観の材料ではなく、狙いを絞る材料である。都市の中で土地が農に開くのは、恒久的にではなく、価格が一時的に沈む数年間である。相続が発生して次の用途が決まらない期間、区画整理や道路事業で生じた残地、建て替え計画が資金調達で止まっている土地、そして人口が減り続ける地方都市の中心部の歯抜け。いずれも「空いている土地」ではなく「いま収益を生めない土地」である。探すべきはこの後者だ。所有者が困っているのは土地がないことではなく、管理費と固定資産税と近隣の目に耐えていることである。

だとすれば、提示すべき条件も変わる。地代を払って借りるという発想を一度外し、ライプツィヒの利用許諾協定のように、期間を区切って土地の管理責任を引き受ける代わりに使わせてもらう組み立てを検討する価値がある。所有権にも将来の建築可能性にも触れないことを明示し、返還時の原状回復の範囲と費用負担、樹木や構築物を残さない設計、協定終了の通知期間を最初の紙に書く。これは所有者を安心させるためだけの配慮ではない。畑をつくる側にとっても、いつ終わるかを知っていることが、投資の規模と作付けの選び方を現実的にする。

同時に、期間が来れば土地は返るという前提を、活動の設計そのものに織り込む必要がある。土に固定される価値(改良された土壌、果樹、構築物)を最小にし、人に蓄積される価値(技術、関係、記録)を最大にする。一つの区画に依存せず、同じ地域で次の候補地を常に一つ持っておく。戦後の市民農園が消えたのは、耕作者が土地を持っていなかったからだった。その事実は変えられないが、土地を失っても続く仕組みを先に用意することはできる。

ここまでは、土地の値段が下がった場所でだけ畑が戻るという話だった。ところが世界には、値段が上がっている場所にわざわざ畑を描き込む主体がいる。地価が高い区画ほど熱心に農園を計画に載せ、しかも自分では耕さない人たち——デベロッパーである。彼らにとって農園は、収穫のための土地ではなく、分譲や賃料や許認可に効く何かなのだとしたら、その何かとは具体的に何なのか。明日の第4回は、その動機を分解する。

この記事の要点

  • 農地の転用は制度の失敗ではなく、制度の設計であることが多い。日本の1968年の線引きは、市街化区域内の農地を『10年以内に市街化を図るべき区域の中の未市街化地』と定義し直した。
  • 守る側の制度は三つの型に整理できる。線で分ける(日本)、帯で囲む(イギリス)、建てる権利を切り離して売買させる(モンゴメリー郡のTDR)。三つ目だけが、所有者の損失を市場で補填する。
  • 制度は永続しない。イングランドのグリーンベルトは2024年から2025年の1年で660ha純減し、その650haは6自治体が地方計画を改定した結果だった。守っているのは指定ではなく、指定を維持し続ける政治である。
  • 逆流の条件は耕す意欲ではなく、他用途からの収益期待の消失である。デトロイトの1区画347ドル、ライプツィヒの建築権の一時凍結は、どちらも価格が沈んだ土地でのみ成立する取引だった。
  • だから実務では、期間限定であることを前提に設計する。所有権と将来の建築可能性に触れないと明示し、土に固定する価値を減らし、人に蓄積する価値を増やし、次の候補地を常に一つ持つ。

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