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1930年に法律ができ、1931年の第1号はつるバラだった——品種の権利は100年足らずで作られた

植物特許、UPOV条約、1991年改正、農民の権利。四つの決定が今の線引きを作った

2026-09-18 · 15

特集 · 種は誰のものか——登録・特許・在来種でみる所有の線引き3 / 7

ポスター風のイラスト。机にバラの植物図譜、押し葉標本、封蝋のついた書類と万年筆。窓の外に温室と赤いバラ。下の黒い帯に「権利はこうして作られた」

アメリカで植物に特許を認めた法律が最初に守ったのは種ではなく花だった。法律の成立は1930年5月23日。翌1931年に出た植物特許の第1号は四季咲きの性質を持つつるバラ「ニュー・ドーン」である。そもそもこの法律は種子もジャガイモもトウモロコシなどの穀類も対象から外していた。アメリカの品種の権利は、種を対象にしない法律から始まったのである。それから31年後の1961年12月2日、パリで品種そのものを保護する国際条約ができる。1991年3月19日の改正は農家が自分の畑で採った種をまき直す慣行を、条約の原則の外から「各国が認めてもよい例外」の中へ移した。農民の側の言い分が条約の条文になったのは2001年。発効は2004年6月29日だった。種に権利がついているのは昔からの当たり前ではない。100年足らずのうちに、誰かの困りごとを解くための決定が一つずつ積み重なってできた仕組みである。

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3分でわかる本記事の内容

  • 種に権利がつくのは昔からの当たり前ではない。アメリカで植物特許法が成立したのは1930年5月23日。翌1931年に出た第1号はつるバラ「ニュー・ドーン」だった。
  • 1930年法が守ったのは接ぎ木など人の手で殖やす植物だけだった。種子もジャガイモもトウモロコシなどの穀類も外され、種でふえる作物は1970年の別の法律を待つことになる。
  • 品種そのものを守る国際条約は1961年12月2日にパリで結ばれ、1972年・1978年・1991年に改正された。1991年改正法が発効した1998年4月24日、1978年法は新規加入を閉じた。
  • 1991年改正が動かしたのは自家増殖の位置だ。米上院の報告書によれば、農家の特権は「明文で認められると同時に部分的に廃止された」。他の農家へ種を売ることは認められない。
  • 農民の権利が条文になったのは2001年の食料農業植物遺伝資源条約である。ただし条約は実現の責任を各国政府に置いた。条約そのものは権利を作っていない。
  • どちらかを悪者にする話ではない。育種には長い時間と資本が要り、採った種をまくのは農業そのものと同じだけ古い。線をどこに引くか。それがこの100年の争点だった。

はじめに

種に権利がついたのは最近で、最初に特許を取った植物は庭のバラだった

アメリカ特許商標庁が公開する特許制度の節目一覧に、植物特許の第1号が載っている。つるバラの「ニュー・ドーン」だ。小麦でも米でもトマトでもない。庭に植える花である。同庁によれば植物特許はいまも人気があり、年に1,000件を超えて出ている。種や苗に誰かの権利がついている状態を、私たちは制度のはじめからの設定のように受け取りがちだ。ところが第1号が出たのは1931年。まだ100年に届いていない。制度は自然に生えてきたのではない。誰かが議会に働きかけ、法案が通り、役所が審査を始めたから存在している。

制度には作られた順序がある。育種家の側にも農家の側にも守りたいものがあり、国と国はその両方を見ながら条文を書き直してきた。書き直すたびに線は動いた。ここで並べるのはその動いた向きと、理由として挙げられた事情だけだ。誰が正しかったかは決めない。年号を並べるのにも意味がある。制度を「昔からそうなっている」と受け取ると、変えられるものとして見えなくなるからだ。1930年、1961年、1991年、2001年。どの年にも人が会議室で決めた日付があり、決めた人には名前と所属がある。決められたものは決め直せる。

舞台は主にアメリカと、ヨーロッパを中心に始まった国際条約である。いまあなたの国で通用している規則も、この国際的な枠組みを各国が自国の法律に翻訳したものだ。翻訳の仕方は国ごとに違う。同じ条約に入っていても、農家に許される範囲はそろわない。だから条約の条文を引いても、それがそのままあなたの畑の規則になるとはかぎらない。日本の現在地は5日目、産業としての種子ビジネスは6日目、論争そのものは7日目に置いた。今日見るのはその手前にある幹の部分だ。世界のどの規則もここから枝分かれしている。つまり各国の法律に共通する土台である。

この記事の道筋

今日の線引きは四つの決定が順に積み重なってできた

一つ目は1930年、アメリカの植物特許法だ。人の手で殖やす植物に特許を認め、育種家を発明家と同じ枠に入れた。二つ目は1961年にパリで結ばれた植物の新品種の保護に関する国際条約。特許とは別の仕組みで品種そのものを守り、その保護を国境をまたいで通用させようとした。三つ目は1991年のジュネーブでの改正である。育成者の権利が及ぶ行為が増え、農家の自家増殖の扱いがはっきり書き換わった。四つ目は2001年の食料農業植物遺伝資源条約。農民の権利という言葉を条文に入れた。

四つのどれも抽象的な理念からは生まれていない。出発点はどれも具体的な困りごとだった。1930年の法案を推した下院議員パーネルは公聴会で目的をこう語っている。産業に与えられてきた特許制度の恩恵に、農業もできるかぎり同じように与れるようにすることだ、と。1961年の条約を作ったのは、育てた品種が他国で自由に増やされる状態を変えたい国々だった。1991年の改正の背景には、育成者の権利が骨抜きにされているという不満がある。そして2001年の条約はその百年で取り分を失ったと考える側が押し込んだ条文である。

この四つの上に、さらに二つの出来事が重なる。一つは1995年1月1日に発効した世界貿易機関の協定だ。その一部であるTRIPS協定は加盟国に「特許か、効果的な独自の制度か、その組み合わせによって植物の品種を保護する」ことを求めた。もう一つはその義務を各国が実行に移す過程で起きた。独自の制度に何を盛り込むかを測る物差しとして、国際条約の水準が事実上使われるようになったのである。条約の加盟は1998年6月時点で35だった。2025年3月にナイジェリアが加わって80、対象となる国は99になっている。

1930年 アメリカ

1930年に植物へ特許が認められたのは、育種家を発明家と同じ扱いにするためだ

ネズミ捕りを発明した人間やジャズの曲を書いた人間には特許や著作権の保護がある。それなのに生涯をかけて新しい植物を育てたルーサー・バーバンクのような人間には何も無い。インディアナ州選出の下院議員フレッド・パーネルのこの言い分は公聴会の記録に残っている。上院で法案を出したのはデラウェア州でイチゴの大農園を営んでいたジョン・タウンゼンドだ。反対もあった。ニューヨーク州選出のフィオレロ・ラガーディアは5月初めの本会議で、そもそもこの措置が必要なのかと問うている。それでも下院は1930年5月13日に法案を可決し、同じ月の23日にフーヴァー大統領が署名した。

対象の線引きにこの法律の性格がよく表れている。守られたのは接ぎ木など人の手で殖やす植物だ。種子もジャガイモもトウモロコシなどの穀類も外された。特許法の条文はいまも、発明または発見して無性繁殖させた、他と区別できる新しい植物の品種を対象にしている。そのうえで「塊茎で繁殖する植物、および栽培されていない状態で見つかった植物」を明文で除く。ジャガイモは種ではなく塊茎で殖える。生物学だけを基準にすれば、人の手で殖やす側に入ってもおかしくない。それでも外された。この線を引いたのは生物学ではない。1930年の議会である。

種でふえる作物に権利の枠ができるのは40年後だ。1970年の植物品種保護法が農務省に品種保護証明書の制度を置き、有性繁殖する品種を対象にした。1980年には連邦最高裁のダイアモンド対チャクラバーティ判決が出る。植物はそれまで自然の産物だとして通常の実用特許を認められていなかった。この判決によって実用特許が植物にも及ぶようになる。米上院の報告書はその結果を整理し、1952年特許法の実用特許、1930年法の植物特許、1970年法の証明書という三つの入口が同時に存在すると述べている。制度は一度で完成したのではない。抜けていた場所を後から一つずつ埋めていった。

1961年 パリ

1961年に国際条約ができたのは、品種が国境を越えて売られるようになったからだ

1961年12月2日、パリで植物の新品種の保護に関する国際条約が結ばれた。運営するのは植物新品種保護国際同盟。頭文字を取ってUPOVと呼ばれる。国連食糧農業機関(FAO)の解説はこの成り立ちを率直に書いている。最初の条約を起草したのは主に工業国の政府だった。狙いは自国の市場と海外の市場の両方で育種家を守ることにあった。では特許と何が違うのか。特許は発明を守る仕組みだ。対象も審査の考え方も工業に寄っている。UPOVが作ったのは別立ての制度である。品種が他と区別できるか、そろっているか、代を重ねても変わらないか。区別性・均一性・安定性と呼ばれるこの性質を審査して品種を守る。

条約はその後三度書き直された。1972年11月10日、1978年10月23日、1991年3月19日である。正式な名前には今も最初の日付と三つの改正の日付がすべて入っている。1978年改正法が発効したのは1981年11月8日。ここまでの制度で育成者が持っていた権利を条文の言葉で書くと、繁殖用の材料について「商業的販売を目的とする生産、販売の申出、販売」の三つに許諾を求めること、となる。行為はたった三つだ。この短さが後で効いてくる。

短い並びは実際の暮らしに効いた。農家が自分の畑で採った種を、翌年また自分の畑にまく。この行為は商業的販売を目的とする生産にも販売の申出にも販売にも当たらない。条文が禁じる側にそもそも入っていなかったのである。慣行は禁止の外にあるという形でそのまま残った。1978年改正法にはもう一つの特徴として二重保護の禁止があった。特許と育成者権の両方を持つ国でも、同じ植物の属や種に与えられるのは片方だけだ。加盟国が保護すべき範囲も狭かった。加入から8年以内に少なくとも24の属または種をカバーすればよい。それが当時の水準である。

1991年 ジュネーブ

1991年の改正で自家増殖は禁止の外から国が認めてもよい例外へ移った

1991年の改正は育成者の権利を三つの方向に広げた。まず許諾が要る行為が増えた。従来の三つに輸出、輸入、繁殖のための調製、そしてこれらの目的での保管が加わる。次に権利が収穫物にも届くようになった。許諾なく使われた繁殖材料から収穫物が得られ、育成者が繁殖材料の段階で権利を行使する機会を持たなかった場合、その収穫物にも許諾が要る。最後に実質的に派生した品種という考え方が入った。見た目を少し変えただけで別品種として登録し、育成者の権利を骨抜きにする。米上院の報告書によれば、そのやり方がこれで終わる。

では自家増殖はどうなったか。1991年改正法によれば、締約国は「合理的な範囲内で、かつ育成者の正当な利益を守ることを条件として」育成者の権利を制限してよい。自分の保有地に保護品種を植えて得た収穫物を、農家が自分の保有地で繁殖の目的に使えるようにするためだ。読めば分かるとおりこれは義務ではない。認めてもよい、という選択肢である。米上院の報告書はこの変化を一文でまとめている。農家の特権は「明文で認められると同時に部分的に廃止された」。そのうえ締約国が農家に認めてよい範囲に、他の農家への種の販売は入らない。

この例外をどこまで広げるかについて、1991年の外交会議は勧告を残した。この規定を、その国で慣行が一般的でない農業・園芸の分野にまで「農民の特権」と呼ばれる慣行を広げる意図で読むべきではない、という内容だ。UPOVの解説文書はこれを踏まえ、想定されているのは収穫物がそのまま種になる小粒穀類のような作物だと書く。果樹・観賞植物・野菜のように収穫物を繁殖材料に使う慣行が一般的でない分野に例外を導入するのは適切でないと考えられる、ともいう。同じ自家増殖でも、小粒穀類の農家と野菜の農家とでは扱いが分かれた。線は作物ごとに違う場所に引かれたのである。

1983年〜2004年 ローマ

農民の権利は2001年に条約に書かれ、実現は各国政府に委ねられた

もう一方の側の動きは別の場所で進んでいた。1983年11月、ローマで開かれたFAOの第22回総会が植物遺伝資源に関する国際的申し合わせを全会一致で採択する。法的な拘束力は無い文書だった。1989年11月の第25回総会は「農民の権利」を定義する。過去・現在・将来にわたって、農民が植物遺伝資源を保存し、改良し、利用できる状態に保ってきた貢献から生じる権利であり、とくに起源地・多様性の中心地の農民によるものを指す。ジュネーブで自家増殖が例外に移されたのと同じ1991年の11月、第26回総会は各国が自国の植物遺伝資源に主権的権利を持つことを確認した。

拘束力のある条約になるのは2001年だ。食料農業植物遺伝資源条約は2001年11月3日に署名のために開かれ、2004年6月29日に発効した。中心にあるのは多国間システムと呼ばれる仕組みである。FAOの説明によれば、人が植物から得ている食料の8割を占める64の重要な作物を、共有の資源として利用しやすい状態に置く。条約の附属書に並ぶ作物を数えると、食用作物が35、飼料作物の属が29。イネもコムギもジャガイモもトウモロコシも入っている。1930年の法律が外したジャガイモとトウモロコシがここでは共有の側に並ぶ。種は誰かの財産ではなく、共有の資源として扱われている。

農民の権利を定めた条文は三段でできている。一段目で締約国は地域社会と先住民、そして世界各地の農民が果たしてきた貢献を認める。肝心なのは二段目だ。農民の権利を実現する責任は各国政府にある、と締約国は合意している。取るべき措置として伝統的知識の保護、利益配分への参加、国レベルの意思決定への参加が挙げられているものの、いずれも「自国の法令に従い、適当な場合に」という条件の内側にある。三段目にはこうある。農家が自家採種した種苗を保存し、利用し、交換し、販売する権利を制限するものと解してはならない。権利を作る条文ではない。削らないための条文である。実効性が議論になり続けている理由はこの書き方にある。

二つの理屈

育成者にも農家にも守るものがあり、線は何度も引き直された

新しい品種を一つ出すまでに、交配と選抜と試験で長い年数と資本が要る。育成者の理屈はここから始まる。米上院の報告書は1998年時点でアメリカが年60億ドルを超える種子を輸出していると書く。その多くはトウモロコシ、小麦、燕麦などの穀類やジャガイモだ。同じ報告書によれば、条約に入っていない国では農家が収穫した穀物を種として自由に売り、育種家と競合している。回収の見込みが無ければ研究開発は細り、その国の市場向けの品種は作られなくなる。これが育成者の側の主張である。実際に条約の加盟は増え、いまは80に達している。

農家の側の理屈も具体的だ。アメリカは1994年、1991年改正に合わせて国内法を直した。加盟国のうちで最初だった。ところが国務省の回答によれば、実施法案のうち「農家が保護された種を売ることを禁じる文言」が当時論争の的になり、条約を上院に送るのが遅れた。1995年の連邦最高裁判決アスグロー種子会社対ウィンターボアがこの点の不確かさを解消し、実施法は同年4月に発効する。制度の側から見れば決着である。しかしそれまで合法だった売買が違法になった農家から見れば、線が自分の側へ動いてきた出来事だった。どちらの見え方も同じ一つの決定を指している。

では庭や市民農園で野菜を育てている人はどこに立つのか。UPOVが2009年10月22日に採択した解説文書によれば、育成者の権利は「私的にかつ非商業的な目的で行われる行為」には及ばない。例として挙がっているのは素人の園芸家だ。自分の庭だけで使うために品種を殖やし、他人に材料を渡さないなら、この範囲に入りうる。農家が自分と同じ土地に住む家族の食べる分だけを作る場合も、私的かつ非商業的な行為に当たりうると同じ文書は書いている。ただしこれは条約の解説であって、あなたの国の法律の条文ではない。最後に効くのは各国の法律である。

振り返り

種の権利は100年足らずのうちに、四つの決定で組み立てられた

道筋をもう一度たどる。1930年5月、アメリカの議会は人の手で殖やす植物に特許を認めた。翌1931年、第1号がつるバラ「ニュー・ドーン」に出る。種でふえる作物が権利の枠に入るには1970年を待たなければならない。1961年12月2日にパリで品種そのものを守る国際条約が結ばれ、1972年、1978年、1991年と書き直された。1978年改正法の下で自家増殖は禁止の外にあった。1991年改正法の下では国が選べる例外に移り、この改正法が発効した1998年4月24日に1978年法は新規加入を閉じた。FAOでは1983年・1989年・1991年の総会が申し合わせを採択し、農民の権利を定義し、主権的権利を確認した。そして2001年に署名が始まった食料農業植物遺伝資源条約が2004年6月29日に発効した。

要となる論点は三つだ。第一に、1930年の法律の線は生物学だけで引かれていない。守られたのは人の手で殖やす植物だけだった。塊茎で殖えるジャガイモまでが種子や穀類とともに外れたことがその証拠である。第二に、1991年改正が動かしたのは自家増殖の位置だ。1978年改正法では「商業的販売を目的とする生産、販売の申出、販売」の外にあった行為が、1991年改正法では選択制の例外の中に入った。米上院の報告書の言い方では「明文で認められると同時に部分的に廃止された」。第三に、2001年の条約は農民の権利を実現する責任を各国政府に置いた。条約が権利を配ったのではない。

この年表には穴もある。第一に、読んでいるのは制度を作った側の記録だけだ。条文も議会の記録も条約の解説も残っている。だが条文が変わった年に、自分の畑で何かをやめた農家がどれだけいたのか。その数字はここでは出せていない。第二に、80という加盟の数が示すのは制度の広がりだけである。各国の法律が農家に何を許しているかは国ごとに違い、同じ条約に入っていても中身はそろわない。第三に、想定される反論がある。制度の年表を作ること自体が、制度に載らなかった実践を見えなくするという批判だ。条文に現れない種の受け渡しを、この年表のどの行も拾っていない。

この回は特集の3日目として、制度が作られた順序を追った。1日目は種に線を引く四つの仕組みを並べ、2日目はF1の種の再生産を止めているのが法律ではなく生物のしくみだと確かめた。今日はそこに法と条約の年号を重ねた。明日の4日目は誰も所有していない種を実際に守っている人たちの現場に降りる。年表に出てこなかった側、つまりコミュニティ・シードバンクや在来種を残す取り組みが主役だ。5日目は日本の現在地、6日目はお金の流れ、7日目は論争と実践で締めくくる。どの話の背後にも、今日の四つの決定のどれかがある。1930年の議会は人の手で殖やす植物に特許を認め、ジャガイモを外した。1991年のジュネーブでは自家増殖が例外に移された。どの線にも決めた日付があり、決めた人がいる。では今年採って来年まこうとしているあなたの種はどうか。それをまいてよいと決めたのは誰か。その線は何年に引かれたのか。そして次に線が引き直されるとき、あなたはまた会議室の外にいるのだろうか。

この記事の要点

  • 種に権利がつくのは昔からの当たり前ではない。アメリカで植物特許法が成立したのは1930年5月23日。翌1931年に出た植物特許の第1号はつるバラだった。
  • 1930年法の線は生物学だけで引かれていない。守られたのは人の手で殖やす植物だけだ。塊茎で殖えるジャガイモも種子や穀類とともに対象から外された。
  • 1978年改正法で育成者が許諾を求められたのは商業的販売を目的とする生産、販売の申出、販売の三つだけである。自家増殖は禁止の外にあった。
  • 1991年改正で自家増殖は各国が選べる例外に移った。米上院の報告書はこれを「明文で認められると同時に部分的に廃止された」と表現している。
  • 国際的な広がりは数字に出る。加盟は1998年6月に35、2025年3月のナイジェリアの加入で80、対象となる国は99に達している。
  • 2001年の食料農業植物遺伝資源条約は農民の権利を条文に入れた。だが実現の責任は各国政府に置かれ、効き目は各国の法律しだいである。
  • 私的で非商業的な行為は育成者の権利の外にある。UPOVの解説文書はその例として、自分の庭だけで使うために品種を殖やす園芸家を挙げている。

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