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100万会員の帝国連盟——ナチスは菜園をどう組織したか

1933年7月29日ニュルンベルク、菜園の連合会を一日で置き換えた「帝国連盟」

2026-09-05 · 18

特集 · ドイツはなぜ「庭の国」になったのか——法・組織・財団が守った150年4 / 7

同じ形の小さな区画が数百並ぶ格子を、大きな印章の円が上から押さえているリソグラフ風の図。一区画だけ空白

既刊『ヒトラーとミッゲ——「血と土」の時代の自給菜園』で思想の転倒は書きました。解放の道具だった菜園が農本主義と民族主義の語彙に飲み込まれていく過程です。今日はそれを繰り返しません。見るのは組織図と数字です。1933年7月29日、ニュルンベルクで開かれた第9回帝国クラインガルテン大会で1921年結成の「ドイツ・クラインガルテン協会帝国連合」は「ドイツ小庭園者・小入植者帝国連盟(Reichsbund der Kleingärtner und Kleinsiedler Deutschlands)」に置き換えられました。理事会は選挙で選ばれなくなり、NSDAPが任命する「指導者」が自分の理事会を任命する仕組みに変わります。1938年、この連盟は会員約100万人・面積約45,000ヘクタールを擁し、果物約3億5,000万kg、野菜約3億kgを生産していたと記録されています。そして同じ1938年、ユダヤ人会員は連盟から完全に排除されました。100万という数字と全面排除は同じ年に立っています。本記事は法令・人事・生産動員・戦後の現実という順でこの組織を追います。

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3分でわかる本記事の内容

  • 1933年7月29日、ニュルンベルクの第9回帝国クラインガルテン大会で「ドイツ小庭園者・小入植者帝国連盟」が発足した。理事会の選挙は廃され、NSDAPが任命する指導者が理事を選ぶ体制に変わった。
  • その帝国連盟を率いたのはハンス・カムラーである。のちに親衛隊経済管理本部C部門長として収容所の建設を統括し、1941年9月26日にアウシュヴィッツ・ビルケナウの建設を命じた人物である。
  • 1938年、帝国連盟は会員約100万人・面積約45,000ヘクタールを擁し、果物約3億5,000万kg、野菜約3億kgを生産したと記録されている。菜園は趣味ではなく食料政策の一部だった。
  • 同じ1938年、ユダヤ人会員は帝国連盟から完全に排除された。ベルリン・ヴェディングではコロニー「パピーア」の土地所有者パウル・ハンブルクが土地を奪われ、返還されたのは1952年である。
  • 制度そのものはナチスの発明ではない。1931年10月6日のブリューニング政権第三次緊急令が失業者向けの小入植地と菜園を用意し、ナチ政権はその器を1934年11月の「生産の戦い」に接続した。
  • 本記事の立場はイデオロギー批判ではなく組織の記述である。思想の転倒は既刊が扱った。ここで見るのは誰が、何人を、どの法令で、どれだけ生産させ、誰を追い出したかという事実だけである。

はじめに

既刊で書いた思想の転倒ではなく、今日見るのは組織図と数字

昨日のDay3はミッゲらが設計した団地の庭を「現物」の側から歩きました。思想の側を扱ったのが既刊の探究コラム『ヒトラーとミッゲ——「血と土」の時代の自給菜園』です。造園家レーベレヒト・ミッゲが「すべての人を自給者に」と唱えた解放の菜園がなぜナチスの農本主義に流用されえたのか。あの記事はその思想史を扱いました。本記事はその続きではありません。同じ時代をまったく別の資料——法令の日付、組織の定款、会員数、作付面積、収穫量、人事記録——だけで書き直します。

理由は単純です。イデオロギーの話は読み手を「あの時代は異常だった」という安全な結論に運びやすい。組織と数字はそれをさせません。1938年の帝国連盟には約100万人の会員がいました。ドイツの成人人口を考えれば、これは市井の人々が大量に加わっていたということです。彼らは思想に殉じたのではなく、区画を借り、会費を払い、じゃがいもを掘っていました。その日常の総体が45,000ヘクタールの生産装置として国家に接続されていた——記述すべきはその接続の仕方です。

断っておきます。以下に出す年号・組織名・数字は資料で確認できたものだけを書きます。確認できなかったものは書きません。資料によって食い違うものは食い違うと明記します。ホロコーストと強制労働にかかわる記述では誇張も矮小化もせず、確認できた事実だけを並べます。この時代について曖昧に書くことは誇張と同じくらい有害だからです。数字を扱うということはその数字が誰の手で作られ、誰を数え落としたのかまで含めて扱うということでもあります。

前提

ナチスが乗っ取った器は既に完成していた1919年の法律と1921年の連合会

第2回「1919年7月31日——飢餓が書かせた小庭園令」で見たとおり、ヴァイマル憲法が国民議会で可決されたのと同じ日に小庭園・小借地令(Kleingarten- und Kleinpachtlandordnung)が成立しています。内容は三点です。第一に借地料の上限規制——下級行政庁が定めた価格を超える賃貸を禁じました。第二に解約制限——第3条により貸主からの契約解除が原則としてできなくなりました。第三に仲裁機関——第4条にもとづき各行政区に「菜園局(Kleingartenamt)」が置かれ、争いを裁きました。菜園は初めて地主の都合で消せない土地になったのです。

その二年後の1921年8月21日、「ドイツ・クラインガルテン協会帝国連合(Reichsverband der Kleingartenvereine Deutschlands)」が結成されます。その定款には党派政治的および宗派的な志向を遠ざけたうえで、すべての菜園保有者を結集することを目的とする、と書かれていました。政治を持ち込まない——ヴァイマル期の分裂した政党状況のなかでこれは団体を守るための知恵でした。全国の菜園を一つの傘の下にまとめ、しかも中立を掲げる組織。それが1933年に出来上がっていた器です。

ここから先は有料パートです。1933年7月のニュルンベルクで何が起きたか、その連盟を誰が率いたか、1938年に並んだ二つの数字は何を意味するか、1931年の緊急令をナチ政権がどう引き継いだか、そして敗戦後に小屋が住居に変わった経緯を順に見ていきます。読むにあたって覚えておいてほしいのはここまでに出た1919年と1921年という二つの年号です。ナチスは菜園の制度をゼロから作っていません。既にあった法と組織を指導者原理で書き換えて使いました。

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