東の150万人、西の1983年法——分断が作った二つの庭
庭を守ったのは東では組織、西では条文。統一で残ったのは西の条文と、東のための例外規定
2026-09-06 · 18 分
特集 · ドイツはなぜ「庭の国」になったのか——法・組織・財団が守った150年5 / 7

ドイツの小さな庭は東でも西でも生き延びました。ただし守った仕掛けが違います。東ドイツでは1959年11月にライプツィヒで結成された小庭園者・入植者・小動物飼育者連盟(VKSK)という一つの巨大組織が1988年に約149万人の会員を抱え、1989年には83万を超える区画・約6万ヘクタールを束ねていました。西ドイツでは1983年2月28日に連邦小庭園法が成立し、区画400平方メートル、小屋24平方メートル、賃料は営利の果樹・野菜栽培の4倍までという数字が条文になりました。1990年、この二つが一つの国で出会います。本記事は既刊『ドイツのアーバンファーム事情——シュレーバーの庭から続く150年』が各1節で素描した東西の対比を、条文の番号と会員数の桁まで下ろして確かめます。扱うのは雰囲気ではありません。何条に何と書いてあるか、そして東の庭がどの手順で西の法の中へ入ったか。
3分でわかる本記事の内容
- 東の規模。VKSKは1959年11月28〜29日にライプツィヒで結成され、1962年に約85万人、1988年に約149万人。1989年には83万超の区画・約6万ヘクタール・約17,500の基礎組織を束ねていた。
- 西の条文。連邦小庭園法は1983年2月28日成立、4月1日施行。第3条が区画400平方メートルと小屋24平方メートル・常住不可、第5条第1項が営利果樹野菜栽培の地域相場の4倍という賃料上限を置く。
- 土地を残しているのは賃料上限ではなく解約規定である。第9条は解約日を11月30日だけに限り、第14条は恒久小庭園を潰す自治体に代替地の提供を義務づけている。
- 「3分の1ルール」は条文にない。2004年6月17日の連邦通常裁判所判決(III ZR 281/03)の目安であり、しかも個々の区画ではなく施設全体の面積について言われている。
- 統一は西の数字をそのまま被せなかった。1990年8月31日の統一条約が挿入した第20a条は東の規定超過の小屋も、既得の常住権も例外として残した。
- 本記事の立場は「東は自給、西は余暇」という要約を退けることである。違いは目的ではなく守り方にあり、統一後に残ったのは条文の側だった。
はじめに
庭を守った二つの仕掛け——東の組織と西の条文
冷戦期のドイツで小さな庭が壁の両側に残ったこと自体はよく知られています。既刊『ドイツのアーバンファーム事情』も東では計画経済を補う食料供給源、西では週末の余暇と園芸の場、と一段落で対比しました。ただしこの要約には肝心なものが落ちています。同じ庭が残ったのは両側で同じ理由からではありません。東の庭を守っていたのは一つの組織と党の方針であり、西の庭を守っていたのは一本の法律と、そこに書かれた数字と日付です。組織は解散できます。条文は改正手続を踏まなければ動きません。1990年に何が残り、何が消えたかはこの違いから説明がつきます。
この特集の中での本記事の担当範囲は「法と組織の対比」です。Day2で1919年の小庭園令を、Day4でナチスによる組織化を扱ってきました。今日はその両方の系譜が分断によって別々の道を歩いた40年を見ます。扱うのはVKSKの会員数と区画数、連邦小庭園法の第1条・第3条・第5条・第9条・第14条、2004年の連邦通常裁判所判決、そして統一条約が挿入した第20a条と1994年の債権法調整法です。数字と条文番号ばかりの回になりますが、ドイツの庭が潰されにくい理由はそこにしか書かれていません。
東の規模
東ドイツの庭をすべて束ねた一つの組織——VKSK
VKSKの前身は1948年11月23日の規定で作られた自由ドイツ労働総同盟(FDGB)の「小庭園扶助」です。1950年3月20日に公益認定を受け、1952年にはFDGBからの分離とVKSKの結成がSED政治局で決まり、10月16日に中央連盟が発足しました。ところが1953年5月11日、SED中央委員会がこれを退け、組織を地区レベルまでに戻します。中央集権的な独立組織としてのVKSKが実際に発足したのは1954年4月22日の閣僚評議会規定を経た後、1959年11月28〜29日にライプツィヒで開かれた結成大会でした。名称のとおり、この組織は小庭園者と入植者と小動物飼育者を一つに束ねています。
規模は数字で見えます。会員は1962年に約85万人、1988年に約149万人。1989年には83万を超える区画、面積にして約6万ヘクタール。地域の基礎組織(シュパルテ)は約17,500、集会用の施設は約3,000。連邦公文書館のVKSK文書群(DY 14)の解題は日常的にこの組織と接触していた東ドイツ市民を約350万人と見積もっています。歴代の会長はカール・シュタイン(1959〜70年)、ヘルベルト・ウーレンダール(1970〜88年)、ホルスト・ラシンスキー(1988〜90年)の3人だけです。31年間で会長が3人という数字がこの組織の性格を言い当てています。
参考・出典
- Bundesministerium der Justiz — Bundeskleingartengesetz (BKleingG), Volltext
- Bundeskleingartengesetz § 20a — Überleitungsregelungen für das Beitrittsgebiet
- Einigungsvertrag, Anlage I Kapitel XIV Abschnitt II(§20a を挿入した規定)
- Schuldrechtsanpassungsgesetz (SchuldRAnpG), Volltext
- Bundesarchiv — Verband der Kleingärtner, Siedler und Kleintierzüchter (DY 14), Bestandsbeschreibung
- BGH, Urteil vom 17.06.2004 – III ZR 281/03(dejure.org)
- BBSR — Kleingärten im Wandel: Innovationen für verdichtete Räume(2017–18)
- Deutscher Bundestag — Zahl der Kleingärten nimmt ab (hib 826/2021, 23.06.2021)
- Wikipedia (de) — Verband der Kleingärtner, Siedler und Kleintierzüchter
- Wikipedia (de) — Zivilgesetzbuch der DDR
東 ①
東の庭は余暇ではなく計画経済の生鮮供給ライン
VKSKが束ねていたのは野菜畑だけではありません。組織の内側には家禽、ウサギ、観賞鳥、外来鳥、カナリア、毛皮獣、ヤギと乳用ヒツジ、血統書つきのイヌとネコ、そしてミツバチの専門部会がありました。連邦公文書館の解題によれば、会員が生産したのは卵・肉・毛皮・蜂蜜・果物・野菜・花で、自家消費を超える分は国家が買い上げ、住民への供給に「実質的に寄与した」とされます。つまり東の小庭園は余暇活動の届出先ではなく、供給計画の末端に組み込まれた生産単位でした。区画を持つことは不足しがちな生鮮品を家庭に入れる現実的な手段でもあったのです。
制度の側も庭を後押ししました。1975年6月19日に成立し1976年1月1日に施行された東ドイツ民法典(ZGB)は国有地に市民の利用権を認め、その利用権を譲渡も相続もできるものとしました。週末小屋「ダーチャ」が広がった法的な土台がこれです。同じ1976年の5月22日、SED第9回党大会が新綱領を採択して以降、小庭園者への社会的な評価と支援は目に見えて強まります。西で1983年に法律が作られる7年前に、東では党大会が同じ役割を果たしていたことになります。
ここが東西の分かれ目です。東の庭を守っていたのは党の方針と、その方針を現場まで運ぶ一つの組織でした。庭の面積も小屋の大きさも賃料も、連邦法のような形で固定されてはいません。組織が働いているかぎり保護は働き、組織が消えれば保護も消える構造です。1990年に起きたのはまさにそれでした。VKSKが解散した瞬間、東の83万区画にはそれらを守る仕掛けが何も残っていなかった。だから西の条文を持ってくるしかなかったのです。
西 ①
1983年法による庭の定義——面積と用途と賃料の数字
西ドイツが選んだのは組織ではなく条文でした。連邦小庭園法(Bundeskleingartengesetz、BKleingG)は1983年2月28日に成立し、第22条の定めどおり同年4月1日に施行されます。まず第1条が「小庭園」を定義します。営利目的でない園芸利用、とりわけ自家消費のための園芸生産物の獲得と、保養のための庭であって、複数の個別庭と共同施設からなる施設(Anlage)の中にあるもの。第1条第2項は所有者や同居家族が使う庭、住居に付属する庭、雇用に伴って与えられる庭、契約で作物が特定された土地、そして一年草しか作れない「グラーベラント」を、いずれも小庭園から外しています。何が小庭園でないかを先に決めているのがこの条文の作り方です。
数字は第3条にあります。第1項は「小庭園は400平方メートルより大きくあるべきではない」。第2項は屋根付きの屋外席を含めて床面積24平方メートルまでの簡素な小屋(ラウベ)を認め、そのうえで「その造り、とりわけ設備と内装からして、恒常的な居住に適していてはならない」と書きます。ここで注意したいのは第1項が「〜であるべきではない(soll nicht)」という指針の書き方であるのに対し、第2項の24平方メートルは「超えてはならない」という上限だということです。同じ条文に並ぶ二つの数字は強さが違います。400平方メートルは目安、24平方メートルは線です。
賃料の上限は第5条第1項です。「賃料として請求できるのは、営利的な果樹・野菜栽培における地域相場の賃料の4倍までとする」。宅地の市場価格ではなく、農業用地の賃料に係数を掛けた額が天井になります。第5条第3項は当事者のどちらからでも上限に向けた改定を申し入れられるが、効力が生じるのは3年が経過した後の次の支払期の初日からだと定め、借り手には値上げに対する解約権を認めます。所得の多寡にかかわらず何十年も同じ区画を持ち続けられる——既刊がそう書いた事実の根拠はこの一項と、次に見る解約規定です。
西 ②
庭を守っているのは賃料上限ではなく解約を難しくする条文
賃料上限だけなら、地主は契約を切って別の用途に回せば済みます。この法が土地を残せているのは解約の側を締めているからです。第9条第1項は通常解約の理由を6つに限定します。第1に、書面での催告を受けてなお園芸以外の利用を続けるといった義務違反。第2に、区画の大きさの変更や通路の改善、休養用地の確保といった施設の再編。第3に、所有者本人または同居家族が自ら園芸利用したい場合。第4に、計画法上ほかの利用が許され、園芸利用の継続が著しい経済的不利益をもたらす場合。第5に、地区詳細計画で定められた別用途に速やかに供する場合。第6に、計画確定手続や用地取得法にもとづいて必要になった場合。理由の列挙が閉じているという構造そのものが保護の中身です。
手続はさらに細かい。第9条第2項は解約の効力が生じる日を11月30日だけに限ります。第1の理由なら8月の第3営業日まで、第2から第6の理由なら2月の第3営業日までに通知しなければならない。第5と第6に限っては任意の月の第3営業日に通知して翌月末で解約する道も開かれています。第3項は期間の定めのある契約では第3と第4の理由による解約を認めません。そして第11条は第2から第6の理由で解約されたとき、借り手が持ち込んだ、あるいは有償で引き継いだ植栽と施設について補償を受けられると定めます。庭を潰す側は日付を待ち、書面を出し、そのうえで払うことになります。
決定的なのは第14条です。恒久小庭園(Dauerkleingarten。第1条第3項により、地区詳細計画で恒久小庭園として指定された土地の上の小庭園を指します)が第9条第1項の第5または第6の理由で解約されたとき、自治体は適切な代替地を提供または調達しなければならない——義務の履行ができない場合を除いて、と条文は続きます。住宅や道路のために庭を潰すなら、自治体は原則としてどこかに庭を作り直す。開発の費用に「庭を作り直す費用」が乗るということです。ドイツの都市に畑が残った理由を一つだけ挙げるなら、賃料上限よりこの代替地義務のほうが効いています。
判例
条文にない「3分の1ルール」——出どころは東の一件の賃料訴訟
既刊が「区画のおおむね3分の1ほどを果樹や野菜の栽培にあてることが求められる」と書いたあの3分の1は法律のどこにも書かれていません。出どころは2004年6月17日の連邦通常裁判所(BGH)判決、事件番号III ZR 281/03です。判決に付された標題は「編入地域における小庭園賃料の価格拘束——『小庭園施設』の概念」。つまりこれは旧東ドイツ地域の賃料をめぐる訴訟でした。第5条第1項の4倍上限が適用されるのはその土地が小庭園施設である場合に限られる。だから「どれだけ野菜を作っていれば小庭園か」という問いは美観や趣旨の話ではなく、地主がいくら取れるかという金額の話なのです。
事案はテューリンゲンです。原告は6,129平方メートルの土地の所有者。そのうち525平方メートルが会員に区画を転貸している被告の協会の施設の中にありました。施設は20区画からなり、うち17区画が園芸利用されています。原告は統一の効力発生日である1990年10月3日の時点でこれらの区画は圧倒的に観賞用の庭だったのだから、施設は小庭園としての性格を持たず、賃料は第5条第1項に縛られないと主張しました。ズール区裁判所(2003年1月30日)とマイニンゲン地方裁判所(2003年9月1日)はいずれも原告を退けましたが、BGHは控訴審判決を破棄し、審理を差し戻しています。
そのうえでBGHが示した判示は3つです。第一に、小庭園施設であるために、その面積の少なくとも半分が自家消費用の園芸生産物(とりわけ果物と野菜)の獲得に使われている必要はない。第二に、その利用が施設の性格を決定的に形づくっていれば足りる。第三に、それは通常、面積の少なくとも3分の1が自家消費用の園芸生産物の栽培に使われていれば認められる。ただし、区画の大きさが非典型的である、地形に特殊性がある、土質が有用植物の栽培を部分的に許さない、といった事情があれば通常とは異なる判断もありうる。注意すべき点が二つあります。3分の1は個々の区画ではなく施設全体の面積について言われていること。そしてこれは条文ではなく「原則として」の目安であり、事情次第で動くということです。
統一
1990年、例外つきで西の法に入った東の庭
手順はこうです。東側では1990年7月7日に庭園・入植者友の会連盟(VGS)が新たに作られ、VKSK自身は1990年10月27日にベルリンで開いた臨時大会で同年12月31日付の解散を決議しました。組織はそこで終わります。地区の連合は個々の庭園協会へと姿を変え、全ドイツのドイツ庭友連盟に合流していきました。一方、法の側は1990年8月31日の統一条約が処理しています。付属文書I第14章第2節第4号が「第20条の後に次の第20a条を挿入する」と定め、1990年9月23日の関連法とともに連邦小庭園法に経過規定を書き加えました。第20a条第1号——加入の効力発生前に成立し、まだ終了していない小庭園利用関係はその時点からこの法律による。
重要なのは西の数字がそのまま被せられたわけではないことです。第20a条第2号は加入前に結ばれた利用契約について、自治体が加入の時点で土地の所有者であるか後に取得した場合、恒久小庭園の賃貸借契約として扱うと定めます。東の庭の多くが手続を経ずに最も強い保護区分に入りました。第6号は賃料を1994年・1996年・1998年の3段階で上限に向けて引き上げる猶予を置き、遡及分の分割払いも認めます。そして第7号は適法に建てられた規定超過の小屋と、小庭園地区での小動物飼育の継続を認め、第8号は加入前に取得していた小屋での恒常的居住の権利を、賃貸人への相応の追加支払いを条件に有効なままにしました。24平方メートルと常住禁止という西の二つの線は東に対しては最初から例外つきだったのです。
小庭園に当たらない庭——ダーチャや週末用の保養地——を受け止めたのは別の法律です。1994年9月21日の債権法調整法(Schuldrechtsanpassungsgesetz)が1995年1月1日に施行され、旧東ドイツ地域で小庭園利用・保養・余暇のために、また車庫など居住目的でない建物のために結ばれた契約を対象にしました。第23条の解約制限は段階式です。1999年12月31日までは所有者は解約できない。2000年1月1日からは住宅建設や地区詳細計画に定められた用途のためだけ。2005年1月1日からは除外が不当となる場合には所有者自身の保養・小庭園利用も理由になりうる。そして2015年10月4日からは一般規定による。ただし1990年10月3日に60歳に達していた利用者に対してはその者が生きているかぎり解約できません。統一は条文に刻まれた日付で25年かけて処理されたのです。
振り返り
分断が残したのは二つの伝統ではなく一本の条文と一組の例外
今日辿った道筋をもう一度たどり直します。出発点は同じ「小さな庭」が東と西で別の仕掛けに守られていたという観察でした。東ドイツでは一つの巨大組織が庭を束ね、その庭は計画経済の生鮮供給の末端として機能していました。西ドイツでは1983年に一本の法律が成立し、面積・用途・賃料・解約手続を数字と日付で固定しました。そこから条文の中身に降り、賃料上限より解約規定と代替地義務のほうが土地を残していることを見て、「3分の1ルール」が条文ではなく東の賃料訴訟から出た判例の目安であることを確かめ、最後に1990年の統一が組織の解散と条文の挿入という二つの別々の手続で処理された過程を追いました。
数字と固有名で三つだけ再掲します。第一に東の規模。VKSKは1959年11月28〜29日にライプツィヒで結成され、1962年に約85万人、1988年に約149万人の会員を数え、1989年には83万を超える区画・約6万ヘクタール・約17,500のシュパルテを抱えていました。第二に西の条文。連邦小庭園法は1983年2月28日成立・4月1日施行で、第3条が400平方メートルと24平方メートル、第5条第1項が営利果樹野菜栽培の地域相場の4倍という賃料上限、第9条が11月30日という解約日、第14条が恒久小庭園に対する自治体の代替地義務を定めます。第三に統一の手順。1990年8月31日の統一条約が第20a条を挿入して東の規定超過の小屋と既得の常住権を残し、1994年9月21日の債権法調整法が小庭園に当たらない庭を2015年10月4日まで段階的に守りました。
わかっていないことも書いておきます。第一に、東の生産量です。連邦公文書館の解題は卵・肉・毛皮・蜂蜜・果物・野菜・花が国家に買い上げられ供給に寄与したと記していますが、年ごとの数量は今回確認できませんでした。第二に、数が突き合いません。1989年の東だけで83万区画・約6万ヘクタールという数字は連邦建設・都市・空間研究所(BBSR)が2017〜18年の調査で挙げる全ドイツ約96万区画・44,000ヘクタールと、面積で逆転しています。ダーチャや保養地をどこまで数に入れるかの違いと考えられますが、確認できていません。第三に、因果です。旧東5州(ベルリンを除く)は人口の15%で小庭園の半分以上を占め、人口100人あたり4区画と、西の平面州の0.5区画を大きく上回ります。これがVKSKの遺産なのか、住宅の形態や土地の余り方によるのかは切り分けられていません。連邦議会の2021年6月23日の報告によれば、1990年に約130万あった区画は現在およそ90万に減り、約65,000が空きです。条文は庭を潰されにくくしましたが、人が来ないことまでは止められません。
この特集における今日の位置づけは「法で守る」という筋の到達点です。Day2は1919年の小庭園令、Day4はナチスによる組織化、そして今日は東の組織と西の条文の対比でした。ここまでで確かめたのは庭を残してきたのが個人の熱意ではなく、条文と組織だという事実です。明日のDay6はその外側を扱います。ミュンヘンの財団anstiftungが連邦小庭園法にも協会組織にも属さない共同菜園1,000(うち異文化間菜園400超)をつないでいる。土地は一年更新の仮設。賃料上限も代替地義務もありません。条文が守れない庭をネットワークは守れるのか。今日見た第14条の強さを物差しにして読むと、明日の話の弱点と強みがはっきりします。
この記事の要点
- 東の庭は趣味ではなく供給の一部だった。VKSKは1988年に約149万人、1989年に83万超の区画・約6万ヘクタールを束ね、自家消費を超えた卵や果物は国家が買い上げた。
- 西の1983年法は庭を数字で定義した。第3条が区画400平方メートルと小屋24平方メートル・常住不可、第5条第1項が営利果樹野菜栽培の地域相場の4倍という賃料上限を置く。
- 土地を残しているのは賃料上限より解約規定である。第9条は解約日を11月30日に限り、第14条は恒久小庭園を潰す自治体に代替地の提供を義務づけている。
- 「3分の1ルール」は条文ではない。2004年6月17日のBGH判決III ZR 281/03が示した目安。しかも個々の区画ではなく施設全体の面積について言われている。
- 統一は西の数字をそのまま被せなかった。統一条約が挿入した第20a条は東の規定超過の小屋と既得の常住権を例外として残し、賃料の上限化も3段階に分けた。
- 小庭園に当たらない庭は別の法律が受け止めた。1994年の債権法調整法はダーチャなどを対象に、1999年末まで解約を禁じ、2015年10月4日まで段階的に保護を薄めた。
- 東西の差は今も数字に残る。旧東5州は人口の15%で小庭園の半分以上を占め、人口100人あたり4区画。西の平面州の0.5区画の8倍である。
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