畑は1987年からあった——2001年の崩壊がロサリオに作らせたのは土地を渡す仕組みだ
一区画300平方メートル、賃料ゼロ、週3〜4回の売り場。アルゼンチンの都市農業を金と土地の単位で見る
2026-09-10 · 19 分
特集 · 危機が先、法律はあと——南米6か国のアーバンファーム2 / 7

ロサリオで最初の共同菜園ができたのは1987年、市の南にあるサラディージョ・スール地区です。作ったのは国立ロサリオ大学を出たばかりの36歳の農学者アントニオ・ラトゥカと、コリエンテス州から来て畑仕事の腕を持っていたクストディオ・レモスたちでした。1990年には市の条例で共同菜園プログラムができ、同じ年に国のプロウエルタも始まっています。2001年12月に経済が崩壊したとき、ロサリオには既に14年ぶんの現場と方法がありました。市が2002年2月に立ち上げた都市農業プログラム(PAU)は畑を発明したのではなく、できていた畑を制度の側へ載せ替えたものです。今日はその中身を開けます。土地は誰が誰に渡すのか、いくらで、どんな条件で。稼ぎはどこから出るのか。そして2024年3月に国が種の購入をやめたとき、現場で何が起きたのか。
3分でわかる本記事の内容
- ロサリオの畑は2001年の崩壊より14年古い。1987年にサラディージョ・スール地区で最初の共同菜園ができ、1990年には市の条例で共同菜園プログラムが作られている。
- 崩壊が作ったのは畑ではなく制度だ。2002年2月に市の社会促進局とNGOのCEPARと国のプロウエルタが組んでPAUを立ち上げ、条例7358/02号と7143/02号が土地の使用と市での販売を規定した。
- 土地は無償で貸される。1人あたりおよそ300平方メートルをコモダート(使用貸借)で受け取り、賃料はない。条件はアグロエコロジーで作ることと、共同の手入れに出ることだけだ。
- 稼ぎは市(いち)から出る。週3〜4回のフェリアで、慣行栽培の野菜と同じ値段で売る。2022年時点で売り場は39か所、プログラムに関わって働く人は360人と報じられた。
- 国の層は2024年3月に止まった。プロウエルタの種の購入費が付かなくなり、最後の全国配布は2023年に買った秋冬の種だった。以後は自治体と州が肩代わりしている。
- 本記事の立場はロサリオを完成した模範として示すことではない。2008年から14年間コモダートの無いまま耕されていた区画があり、ウエルテロのネットワークは事実上機能を失ったと当事者が語っている。
はじめに
ロサリオの畑は2001年の崩壊より14年古い
1987年、ロサリオ市南部のサラディージョ・スール地区に最初の共同菜園ができました。中心にいたのは国立ロサリオ大学を出たばかりの農学者アントニオ・ラトゥカ、同じ大学の同僚パトリシア・ビルガ、そしてコリエンテス州から来て畑仕事の腕を持っていたクストディオ・レモスです。NGOのタジェール・エコロヒスタが協力し、ジャーナリストのカルロス・デル・フラーデがラジオで住民に呼びかけました。取り組みが一つの菜園を超えて広がるなかで、彼らはアグロエコロジー生産研究センター(CEPAR)を立ち上げます。1990年には市の条例で共同菜園プログラムが作られ、同じ1990年に国のプロウエルタも始まりました。ロサリオでは1991年ごろから両者が互いを補強していきます。
この順序が大事です。昨日の年表はロサリオの起点を2002年に置きましたが、畑と方法はその15年前からありました。2001年の崩壊が持ち込んだのは技術ではなく規模と政治的な意志です。方法の側はCEPARが14年かけて作っていました。生態学的な栽培、地区に入って住民と一緒に決めること、現場に居続けること、そして「ウエルタ・グルパル(グループ菜園)」という形です。共同の菜園を個人の区画に切り分け、一家族が一区画を受け持って自分のペースで好きな野菜を作りつつ、手入れや研修や新しい企画は全員でやる。この形があったことが、2002年以降に数千の家族を短期間で受け止められた理由の一つです。
種も1987年から積み上がっていました。1997年にはニャンデロガ種子銀行を中心に「種の名づけ親」という仕組みが始まっています。ある品種をひとりのウエルテロに預け、その人が育てて採種し、他のウエルテロや農家と交換する。品種を冷蔵庫ではなく畑で生かしておくやり方です。のちにこれは在来種・伝統種の生産・保存・管理の計画へ広がり、2010年には種子生産マニュアルが作られました。「ロサリオは多様性を育てる」という啓発キャンペーンのチラシやポスターも作られています。2014年の時点でこの名づけ親のネットワークには240人が参加していました。崩壊のときにロサリオが取り出せたのは遊休地の目録ではなく、この人と種のつながりです。制度が後から追いついたのは土地だけではありません。この蓄積のほうにも追いついたのです。
設計
市が渡したのは土地と道具、そして売り場だ
PAUが動き出したのは2002年2月です。組んだのは市の社会促進局(Secretaría de Promoción Social)、NGOのCEPAR、そして国立農牧技術院(INTA)と国の開発担当省が運営するプロウエルタでした。掲げた狙いは地区単位の内発的な発展で、方法はアグロエコロジーです。具体的には、都市のグループ菜園を設けて健康な野菜と香草を作り、それをフェリア(青空市)で売って収入にする。調整責任者たち自身の記述によれば、この種のフェリアは当時のロサリオに存在しませんでした。作る場所と売る場所を同時に作ったところがこのプログラムの設計です。最初の2年は「社会的緊急期」と位置づけられていて、この時期の菜園には収入源であると同時に、失業した人が毎日出かける先という役割がありました。実際の初期作業の大半は土地の清掃です。
最初の2年で法的な枠も入りました。生産スペースの使用と販売を規定した条例7358/02号と7143/02号、そしてPAUを正式に設置した2003年の市長令0.838号です。プログラムの調整責任者たちが2014年に発表した論文はこの三つを制度化の柱として挙げています。注目したいのは土地についての条例だけでなく市での販売についての条例が要ったことです。公道や広場で野菜を売るには許可が要ります。畑を与えても売り場が違法なままなら、それは収入になりません。同じ論文は制度化の目的を「食料緊急事業を超えて、都市農業を市の公共政策にすること」と書き、そのために必要なこととして、空間の譲渡と販売に法的な枠を与えること、都市計画に都市農業を組み込むこと、貧しい家族を社会に認められた連帯経済の回路に入れることの三つを挙げています。
置かれた棚も見ておきます。PAUは福祉部局でも農政部局でもなく、社会経済(economía social)の部門に置かれました。2026年現在も市の社会経済次官室の下にある「生産スペース調整課」が所管しています。同じ国の首都では対照的で、ブエノスアイレス市の都市農業プログラムは環境保護庁(Agencia de Protección Ambiental)の下にあり、水耕栽培の実習と生ごみの堆肥化の教室が中心です。市の都市農業センターは800メートルぶんの水耕ベッドで年間7,000キログラム、温室で年間5万キログラムを生産すると公表しています。棚が違えば作るものが違うという話は昨日も触れましたが、同じ国のなかでこれだけ違います。
参考・出典
- Lattuca, Terrile y Sadagorsky — El Programa de Agricultura Urbana de la Municipalidad de Rosario en Argentina, Hábitat y Sociedad n.º 7 (2014)
- Fundación Rosa Luxemburgo — La prehistoria de la Agricultura Urbana en Rosario, un proyecto modelo(1987年のサラディージョ・スール、CEPAR、1990年の市条例)
- La tinta — Rosario: el programa de Agricultura Urbana que salió campeón del mundo(コモダート、1人300平方メートル、パルケ・ウエルタ7か所、WRI都市賞)
- Infobae — El Programa de Agricultura Urbana de Rosario produce alimentos agroecológicos y da trabajo a 360 personas (2022)
- enREDando — Agricultura urbana en Rosario: una fisura vital en la ciudad(ウエルテロへの聞き取り、2022年11月4日)
- Municipalidad de Rosario — Realizar visitas formativas en huertas y parques huerta(現在の所管:社会経済次官室 生産スペース調整課)
- Argentina.gob.ar — ProHuerta: una política pública con más de 30 años de historia
- LCR Diario Digital — Cierre del ProHuerta: municipios están a cargo de la compra y distribución de semillas(2024年10月25日)
- Ministerio de Desarrollo Agrario, Provincia de Buenos Aires — Programa Huerta Urbana Bonaerense(下限40平方メートル、MI MDA)
- El Barrio Pueyrredón — Ley de agricultura urbana: huerteros alertan por «la posibilidad de uso de tierras públicas con fines de lucro privado»(Ley 6377 第8条への批判と対案)
土地
土地は売りも貸しもしない。1人およそ300平方メートルを無償で貸し渡す
耕す人が受け取るのは所有権でも賃借権でもなく、コモダート(使用貸借)です。賃料(カノン)はありません。1人あたりの区画はおよそ300平方メートル。条件は二つで、アグロエコロジーの方法で作ることと、共同スペースの手入れに出ることです。2021年の報道によれば、市が農的利用に充てていた土地はおよそ40ヘクタール、内訳は1か所2.5〜3ヘクタールのパルケ・ウエルタが7か所と、線路沿いの緑の回廊が3本、それに10か所の市営菜園と断続的な共同区画でした。賃料をゼロにするという選択は収入の側から見ると重い意味を持ちます。売上から地代を引かなくてよいからです。ドイツの連邦小庭園法が借地料に上限を置いたのに対して、ここでは上限ではなく免除が使われました。そのぶん、土地を渡すか渡さないかの判断が市の裁量に残ります。
どの土地を選んだかがこの仕組みの核心です。市は2003年に都市農業に使える遊休地の悉皆調査を行いました。そのうえで優先したのが「建てられない土地」です。高速道路の脇、小川の岸、鉄道の線路際、広場や病院や学校の花壇。住宅の需要と競合しないことが選定の基準でした。調整責任者たちの記述によれば、これらは瓦礫と家庭ごみの混じった劣化した残余地で、清掃と地力の回復、水と電気の引き込みを経てはじめて「空いている土地」から「実際に使える土地」に変わります。手間の代わりに、誰も欲しがらないという安定を買ったわけです。同じ論文はこの選定と並行して権利の弱い土地から強い土地へ菜園を移していったとも書いています。危うい場所で耕し続けるのではなく、危うい場所を減らしていく方針です。
土地の出どころも一様ではありません。パルケ・ウエルタは国の道路公団ビアリダー・ナシオナルとの協定、線路沿いの緑の回廊は鉄道会社NCAとの協定で成り立っています。市の持ち物だけでは面積が足りず、国の機関と民間の鉄道事業者から借りている形です。回復の効果は測られました。2011年から国立ロサリオ大学農学部の土壌学・微生物学の講座と協定を結び、パルケ・ウエルタ・エル・ボスケで有機質資材の投入やヘアリーベッチによる緑肥を試験しています。大学の分析で有機物、生物活性、硝酸態窒素、可給態リンの改善が確認されました。土がよくなったという主張に第三者の裏づけを付けた例です。2017年には3ヘクタールのロサリオ農生態学センターが作られ、種子生産、薬用植物、堆肥づくり、生物資材の開発を担っています。土と種と資材を自前で作る側に寄せることで、外から買う量を減らす設計です。
お金
収入はフェリアから出る。売り値は慣行野菜と同じにしてある
フェリアはPAUと同時に作られました。開くのは週3〜4回。値段の付け方が特徴的で、慣行栽培の野菜と同じ価格帯に置かれています。アグロエコロジーの野菜が高くなる必然は無い、という主張を値札で示したことになります。売り場はその後増え、2022年の時点ではフェリアに加えて八百屋や宅配の箱を含めて39か所と報じられました。生産の側だけでなく流通の側まで市が用意した点が、他国の菜園制度と比べたときのロサリオの特徴です。調整責任者たちはフェリアを別の角度からも説明しています。ネットワークをつなぐ結節点であり、周縁に住む作り手と中心に住む買い手が顔を合わせる場所でもある、と。畑は地区の中に閉じますが、市は都市の側へ開きます。
季節の波と余りには加工で答えました。「社会的アグロインダストリー(agroindustrias sociales)」と呼ばれる小さな加工の場です。作るのは野菜のパック、ピクルス、ジャム、そして香草を使ったシャンプー、ジェル、石けん。野菜だけを売っていると、採れすぎた日には値が崩れ、採れない季節には収入が消えます。加工品はその両方をならします。石けんとシャンプーがここに並んでいるのには理由があって、香草は野菜より単価が高く、保存もきき、狭い区画でも量が作れるからです。売るものは収穫物だけではありません。堆肥を多く混ぜた土で高床の苗床を作る「エコ菜園・健康な庭」という高収量の方式があり、学校、病院、老人ホーム、広場、企業に設置されてきました。ウエルテロのネットワークはこの設置作業を家庭向け・法人向けのサービスとして請け負っています。野菜が採れない季節にも売れるものを作った、という意味では加工品と同じ発想です。
規模の目安も出ています。2022年の報道によれば、プログラムに関わって働いている人は360人、7か所のパルケ・ウエルタで作っているウエルテロは300人を超え、その6割が女性です。同じ報道はロサリオ農生態学センターの種子銀行に400の種と品種が保存されているとしています。ドイツの制度が借地料の上限で畑を土地の値段から切り離したのに対して、ロサリオは地代をゼロにしたうえで売り場を作り、現金の流れのほうを作りました。守り方が違うというより、守っている対象が違います。片方は区画で、片方は生計です。同じ報道は生産者のひとりハビエル・トラバを紹介していて、彼は0.5ヘクタールから3ヘクタールまで作付けを広げました。区画をもらった人が全員そこで止まるわけではなく、専業として広げていく道もあることを示す例です。
担い手
「ウエルテロ」は国の登録簿に載る職業になった
耕す人たちは自分たちの組織を持ちました。ロサリオ・ウエルテラス/ウエルテロス・ネットワーク(Red de huerteras y huerteros de Rosario)です。法人格を持つ非営利の市民団体として登録され、理事会は各菜園から出た構成員でつくられました。どの菜園も代表を持てるようにするための設計です。2014年の時点で活動している構成員はおよそ160人でした。市のプログラムの受益者という立場から、市と交渉できる相手方になるまでにおよそ10年かかっています。その過程では外部からの支援も入りました。PAUの強化を狙った国際協力の事業と、2010年にNGOナシミエントが行った、組織づくりそのものを対象にした研修です。畑の作り方ではなく団体の作り方を教える研修が要ったという事実はこの種の制度を移植しようとする側にとって見落としやすい部分です。
制度化が耕す人に具体的に何を渡したかはこの一点に出ます。国の家族農業次官室がウエルテロを家族農業の担い手として認め、全国家族農業登録簿(RENAF)に登録したことです。登録されると社会保障上の権利が段階的に開き、医療の共済(オブラ・ソシアル)にも手が届くようになります。畑の面積でも収穫量でもなく、職業として名前が国の帳簿に載ることが利益になりました。2013年には18歳から24歳の失業中の若者が労働省の「より多く、より良い仕事を若者に」計画の枠で入り、ネットワークが受け皿と講師の役を担っています。ここでも訓練を担ったのはPAUの技術者とプロウエルタの技術者、そしてネットワーク自身でした。国の雇用政策の予算が、市の菜園を通って若者の手当になる。層がつながっている数少ない例の一つがこれです。
誰が耕していたのかも記録に残っています。調整責任者たちはコリエンテス、サンティアゴ・デル・エステロ、チャコ、パラグアイ、ボリビアから来た人たちの農村の技と、イタリア系・スペイン系の祖父母から伝わった作り方、そして技術者が持ち込んだ生態学的な手法が混ざったと書いています。地方から出てきて都市の周縁に住んだ人たちの知識が、都市の中で新しい職業(nuevo oficio)の形をとった。都市農業を「都市生活者の新しい趣味」として説明する言い方が届かない層が、ここでは主役です。役割の移り方も見ておく価値があります。2021年の取材に応じたトマサ・ラモスはもともと耕す側で、いまは新しく入った人に技術的な助言をする立場です。土づくりから最初の種まきまで付き添う、と彼女は説明しています。研修を外から買わずに、続けた人が次の人に渡す形が20年で成立しました。
数字の出どころ
同じプログラムの生産量が資料によって25倍ちがう
調整責任者たち自身が2014年に発表した数字はこうです。都市農業のために回復・保全された土地は67ヘクタール、うち社会的・生産的に使われているのが19ヘクタール、残る48ヘクタールはレクリエーションとスポーツに充てられています。参加するウエルテロは250人、若いウエルテロが140人、固定客が400人。年間生産は野菜9万5,000キログラムと香草5,000キログラムで、合わせておよそ100トンです。学校との教育活動は40校、種の名づけ親のネットワークは240人でした。プログラムの当事者が自分たちの成果として書いた数字なので、控えめに見積もった可能性は低いほうです。
一方、2021年以降によく引かれる数字は年間およそ2,500トンです。25倍の開きがあります。近郊の緑のベルトの面積も資料ごとに違い、2015年の条例で恒久指定された800ヘクタールとする記録、700ヘクタールを確保したとする2021年の記事、緑のベルトは120ヘクタールだとする2022年の報道が並びます。市内の農的利用面積も40ヘクタール、30ヘクタール、67ヘクタールと揺れます。どれも捏造ではなく、それぞれ実在の公表資料に載っている数字です。参加者の数も似た振れ方をします。2014年に250人、2022年に300人超、別の記録では2,400世帯以上。世帯を数えるのか、人を数えるのか、常時いる人を数えるのか、書いていない資料が多いのです。
この差を埋める説明は今のところ推測にとどまります。もっともらしいのは100トンが市街地の菜園の収穫で、2,500トンが近郊の緑のベルトを含む食料生産の全体だという読みです。恒久指定された面積と実際に耕されている面積の違いも効いているはずです。ただしどの資料もその境界を明示していないため、本記事は確定した数字として扱いません。ここから引き出せる実務上の教訓が一つあります。都市農業の成果を数字で示すときは、数えた範囲と時点を書き添えないと、その数字は次の人に25倍の幅で引用されます。ロサリオが国際的な賞を取ったあと、この数字は世界中の政策文書に引かれました。境界の書かれていない数字ほど遠くまで運ばれます。
市・州・国
市と州と国が別々に走っていて、つながっていない
国の層はプロウエルタです。配る種のキットはおよそ100平方メートルの菜園を想定して組まれ、秋冬と春夏の年2回渡されてきました。ところが2024年3月を最後に、国は種の購入費を出さなくなります。人的資本省の判断でした。最後の全国配布は2023年に買った秋冬の種で、以後は自治体が自前で買って社会開発の窓口から配るよう促された、と2024年10月の報道は伝えています。買うかどうかは各自治体の政治判断だとも書かれています。1990年から34年続いた層の一番下が抜けた形です。INTAは技術的な助言のほうは続けているとされます。同じ報道はリオネグロ州のバジェ・アスール行政委員会が春夏用に100の種のキットを自前で買って無償で配ると発表した例を挙げています。人口数千人の自治体が国の代わりに100世帯ぶんを買う。規模の落差がそのまま読み取れます。
州の層はその同じ年に動きました。ブエノスアイレス州の農業開発省が2024年後半に「都市菜園プログラム(Programa Huerta Urbana Bonaerense)」を始めています。対象は40平方メートル以上の共同菜園を作る団体・クラブ・協会・組織と、地域の育苗場を整える自治体です。渡すのは苗と研修、自治体には資材と伴走。申請は州のオンライン窓口MI MDAから行います。40平方メートルという低い下限は学校や病院や地区の団体の小さな菜園を拾うための設計です。実際、第1期の参加はほぼ学校菜園と社会団体と病院の菜園で、家庭菜園はあまり入っていません。自治体の育苗場を支える枠を併設したのは苗の供給というボトルネックに州が直接手を入れるためです。国が種で配っていたものを、州は苗と育苗場で配り直したことになります。時期は国の撤退と重なりますが、因果関係を示す記録は確認できませんでした。
市の層はブエノスアイレス市です。2020年12月3日に可決された市法6377号の第8条は公的・私的を問わずすべての自然人・法人が公有地を共同菜園に使う許可を申請できると定めました。批判はここに集中します。菜園側のコレクティボ「エル・レシクラドール」(カルロス・ブリガンティ)とレッド・インテル・ウエルタスはこの条文が公有地を私的な営利に使う余地を残すと述べ、農学者アグスティン・レウスがそう明言しています。彼らが出していた対案は「アグロエコロジー的公共菜園の体系」で、運営を国家機関か非営利団体に限り、教育・環境学習・食料主権・地域の統合を軸に置く内容でした。市議のセシリア・セグーラがこの側に付いています。
現場
2008年から14年間、コモダートの無いまま耕されていた区画がある
制度の設計と現場の実態は同じではありません。2022年11月に地元メディアが載せた聞き取りで、ロベルタ・バレンシア・ムニョスは「私たちは2008年からここに14年いるが、コモダートは一度も無かった。昨日になって市の人が来て、コモダートを結びたいと言ってきた」と語っています。手続きの不透明さも指摘しました。無償の使用貸借という仕組みは全部の区画に行き渡っていたわけではありません。制度の説明を読むだけでは、書類の無いまま14年耕していた人には行き当たらないのです。しかもこの14年はプログラムが国際的に評価され、大賞を受けていった時期とそのまま重なります。表彰される制度と、書類の来ない区画が、同じ市の同じ年に並んで存在していました。
同じ聞き取りには他の声もあります。イダ・ピントスはネットワークについて、各地区のウエルテロ一家がつながっていたものが「今ではほとんど無いようなものになった」と述べました。ドローレス・ピントスは「助けなんて何も、まったく無い」と言い、菜園の上でニワトリを飼う隣人や豚を飼い始めた隣人との争いに市の調整が入らないと話しています。ロベルタは維持のための再投資が行われていないため道具も買えず、売って食べるだけの量も作れないと述べました。人はそうして意欲を失って離れていきます。ネットワークの弱りは制度の設計そのものに跳ね返ります。理事会に各菜園の代表を置く仕組みは菜園ごとに人が残っていることを前提にしているからです。人が抜けた菜園に代表は出せません。
リリー・マリネッロの言い方が一番短くまとまっています。「空間はいくつか作られたが、国としての政策にはなっていない」。ただし同じ時期に、このプログラムは54か国から寄せられた262件のなかから選ばれて、世界資源研究所(WRI)ロス・センターの都市賞2020-21の大賞と25万米ドルを受けています。20年以上続き、市長が何度も替わっても消えなかったこと自体、自治体のプログラムとしては珍しいことです。どちらも本当です。設計のほうは長持ちし、日々の手入れのほうは保証されていません。当時の市の社会経済次官パブロ・ナシは受賞の理由として20年以上続いたことと包摂の力を挙げました。20年続いたことは事実であり、そのあいだに何人が離れたかは数えられていない。この二つは矛盾しません。
振り返り
危機が作ったのは畑ではなく、畑に土地と売り場を渡す事務手続きである
辿った道筋を並べ直します。出発点は1987年のサラディージョ・スールで、農学者アントニオ・ラトゥカらが最初の共同菜園を作りました。1990年に市の条例で共同菜園プログラムができ、同じ年に国のプロウエルタが始まります。2001年12月の崩壊のあと、2002年2月に市の社会促進局とCEPARとプロウエルタが組んでPAUを立ち上げました。条例7358/02号と7143/02号が生産スペースの使用と販売を規定し、2003年の市長令0.838号がPAUを正式に置きます。そのうえで土地の渡し方、稼ぎ方、担い手の位置づけを順に見て、最後に数字の食い違いと現場の声に降りました。
重要な論点を三つ言い直します。第一に、危機は方法を作っていません。1987年からの14年でCEPARが作った「ウエルタ・グルパル」——共同の菜園を個人の区画に切る形——があったから、2002年に数千の家族を短期間で受け止められました。第二に、この制度が守っているのは区画ではなく生計です。地代をゼロにし、2003年の悉皆調査で住宅と競合しない「建てられない土地」を選び、週3〜4回の売り場を作りました。2022年時点で売り場は39か所、関わって働く人は360人、ウエルテロの6割が女性とされます。第三に、層はつながっていません。国は2024年3月で種の購入をやめ、ブエノスアイレス州は同じ年に下限40平方メートルの枠を作り、ブエノスアイレス市は2020年に法律6377号を作りましたが、その第8条を菜園側が批判しました。
わかっていないことも書いておきます。第一に、生産量です。調整責任者たちが2014年に示した年間およそ100トン(野菜9万5,000キログラム+香草5,000キログラム)と、2021年以降に引かれる年間およそ2,500トンの差を本記事は埋められませんでした。緑のベルトの面積も800、700、120ヘクタールと資料ごとに違います。第二に、2004年と2015年の条例の番号を一次資料で確認できていません。根拠資料にある2002年の条例7341号も確認できず、代わりに調整責任者たちの論文が挙げる7358/02号と7143/02号を採りました。市法6377号の第8条の文言も、公式の条文集に到達できなかったため報道の引用に依拠しています。第三に、想定される反論があります。本記事は市の制度に寄って書いていますが、書類の無いまま14年耕していた区画があるのなら、制度の記述そのものが現場の一部しか写していない可能性が残ります。国の撤退と州の新設が同じ2024年に起きたことについても、因果を示す記録は確認できていません。
特集のなかでこの回が担うのは昨日の年表が一行で通した「2004年の条例」と「1990年のプロウエルタ」を開けて、金と土地と人の単位まで下ろすことでした。明日の第3回はブラジルです。ベロオリゾンテが1993年から31年間、国の法律なしに食料政策を回し、2024年7月29日にようやく国のPNAU(法律14.935号)ができた経緯を見ます。読み比べるときの補助線を一つ置いておきます。ロサリオは売り場を作って生計を支えました。ベロオリゾンテは公共調達という別の需要を作りました。どちらも畑を守るために、土地の外側にいる「買い手」を制度で用意した例です。その買い手が細ったときに畑がどうなるかは今日のロサリオが先に見せています。
この記事の要点
- ロサリオの畑は2001年の崩壊より14年古い。1987年にサラディージョ・スール地区で最初の共同菜園ができ、1990年には市の条例で共同菜園プログラムが作られている。
- 崩壊が作ったのは制度である。2002年2月にPAUが立ち上がり、条例7358/02号と7143/02号が生産スペースの使用と販売を、2003年の市長令0.838号がプログラムの設置を定めた。
- 土地は無償で貸される。1人あたりおよそ300平方メートルをコモダートで受け取り、条件はアグロエコロジーで作ることと共同の手入れに出ることだけである。
- 土地は「建てられない場所」から選ばれた。2003年の悉皆調査のあと、高速道路脇・小川の岸・線路際・広場や病院の花壇が優先されている。住宅の需要と競合しないためだ。
- 収入は市(いち)から出る。週3〜4回のフェリアで慣行野菜と同じ値段で売り、2022年の時点で売り場は39か所とされる。加工品が季節の波をならしている。
- 制度化がウエルテロに渡した最大のものは登録だった。全国家族農業登録簿(RENAF)に載ることで、医療の共済など社会保障上の権利に手が届くようになる。
- 国の層は2024年3月に止まった。プロウエルタの種の購入費が消え、自治体が自前で買うよう促された。市・州・国の三つの層はつながっていない。
このコラムは無料公開中です
新しいコラムが公開されると、古い記事は会員限定アーカイブに入ります。無料ニュースレターに登録すると、新着コラムと世界の都市農の動きを毎週メールで受け取れます。
読者フィードバック
この記事は参考になりましたか?
ログイン不要。同じ端末からは1記事につき1票で、選び直すこともできます。
関連コラム
国の法律が来たのは畑ではなく鍋だった——ペルー、リマの菜園と共同の台所
年間降水量15ミリ未満の都市で菜園を続けているのは市の条例と女性たちの地域組織である
17 分菜園を先に作ったのはラップの集団だった——コロンビア、メデジンとボゴタ
メデジンでは行方不明者の記憶から菜園が始まり、ボゴタでは市民が市より先に菜園を地図にした
18 分市役所が31年、国会が9年——ブラジルの都市農業はこうして法律になった
国の法律が引き受けたのは自治体と学校給食が先に作っていた買い手のいる回路だった
18 分フランスのアーバンファーム事情——パリ市は、自ら耕さない土地をどう農地にしたか
1952年の法律から2016年のパリキュルトゥールまで。制度と政策を軸に、公共がつくった都市農を読み解く
29 分