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フランスのアーバンファーム事情——パリ市は、自ら耕さない土地をどう農地にしたか

1952年の法律から2016年のパリキュルトゥールまで。制度と政策を軸に、公共がつくった都市農を読み解く

2026-07-13 · 29

都市の農地は、たいてい農家が耕して生まれます。ところがフランス、とりわけパリでは、農を街に根づかせてきた主役の一人は「農家ではない者」——市当局でした。市は畑を耕しません。種もまきません。それでも、条例や憲章、公募や協定といった制度の力で、屋根や壁や空き地を「農地」へと変えてきました。本レポートは、フランスのアーバンファームを、個々の農園という風景としてではなく、公共の制度が土地の使い方を組み替えてきた政策の時間軸として読み解きます。1896年に生まれた労働者菜園を1952年の法律が「ファミリー菜園」として制度化した歴史、2003年にパリ市が始めた市民庭園の統治モデル「マン・ヴェルト」、そして2016年の公募プログラム「パリキュルトゥール」と「100ヘクタール憲章」。問いは一つです。自ら耕さない都市が、どうやって土地を農地へと統治していくのか。その設計をたどります。

概況

耕さない主役——都市が農地をつくるということ

アーバンファームの話は、たいてい「誰が育てているか」から始まります。フランスの場合、その問いに正面から答えようとすると、少し意外な名前が返ってきます。パリ市です。市は農家ではありません。トマトを育てるわけでも、収穫を売るわけでもない。それでも、フランスの都市農を語るうえで市当局を抜きにはできません。土地を農地に変えるかどうか、誰にどんな条件で使わせるか——その枠組みそのものを、公共が制度として設計してきたからです。

この視点に立つと、フランスの都市農はいくつもの「制度の層」が積み重なった構造物に見えてきます。19世紀末に生まれ、1952年の法律で公式に位置づけられた「ファミリー菜園」。2003年にパリ市が市民の共同庭園を束ねるために始めた「マン・ヴェルト」。そして2016年、屋根や壁を農の舞台に開くために市が始めた公募「パリキュルトゥール」。本レポートが追いかけるのは、これら一つひとつの制度が、都市の土地の使い方をどう組み替えてきたかという政策の物語です。

論点

自ら耕さない都市が、いかに土地を農地へ統治するか

本レポートを貫く問いは、シンプルですが奥行きがあります。自ら耕さない都市が、どうすれば土地を農地に変えられるのか、という問いです。都市が持っているのは、鍬でも種でもなく、別の資源です。所有する土地、条例をつくる権限、公募や協定という手続き、そして補助や支援の予算。フランスの経験が示すのは、これらの「行政の道具」を組み合わせれば、市は一枚の畑も耕さないまま、街のあちこちに農を生み出せるということでした。

だからこそ、本レポートでは歴史や個々の農園を、それ自体としてではなく、政策の議論に奉仕するかぎりで扱います。1896年の労働者菜園も、ヨーロッパ最大とされる屋上農園「ナチュール・ユルベーヌ」も、ここでは「制度がそれをどう可能にしたか」を示す事例として登場します。以降、1952年の法律、2003年のマン・ヴェルト、2016年のパリキュルトゥールと100ヘクタール憲章、そしてその成果と限界までを順にたどり、公共がつくった都市農の設計図を描いていきます。

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