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救貧の庭から共同菜園まで——ドイツ200年の見取り図

ドイツの畑を残したのは庭好きの国民性ではなく、法律と協会と借地料の上限

2026-09-02 · 18

特集 · ドイツはなぜ「庭の国」になったのか——法・組織・財団が守った150年1 / 7

救貧の庭から現代の木箱菜園まで、ドイツ200年の市民菜園を左から右へ一列に並べたリソグラフ風の図

ドイツの都市には867,092区画の小さな畑があります。合わせて44,000ヘクタール、1区画の平均は370平方メートル。ベルリンに約66,000、ライプツィヒに約39,000。これは風景ではなく制度です。区画の広さの上限は400平方メートル、庭小屋は24平方メートルまで、借地料は営利の果樹・野菜栽培における地域相場の4倍を超えてはならない——すべて連邦小庭園法という一本の法律に数字で書かれています。なぜドイツだけが200年かけてここまでの仕組みを作ったのか。本特集はその答えを人物や風景ではなく、法律・組織・土地とお金・財団という四つの装置から7日かけて追います。今日はその見取り図です。1797年の救貧の庭から2025年の異文化間菜園まで200年を年号で一気に通過します。

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3分でわかる本記事の内容

  • ドイツの小庭園は制度である。連邦小庭園法(1983年2月28日制定、同年4月1日施行)が1区画400平方メートル以下、庭小屋24平方メートル以下、借地料は営利園芸の地域相場の4倍までと数字で定めている。
  • 400平方メートルという寸法は1830年に決まった。キールの「自発的貧民友の会」が市有地プリューナー・シュラークに割り当てた区画の大きさ。その線が1983年の連邦法にそのまま入っている。
  • 畑に権利を与えたのは1919年7月31日の小庭園・小借地令だ。第1条で行政が借地料に上限を設け、第3条で貸主からの解約を禁じた。この二つの条文が都市の一等地に畑を残した。
  • 組織があったから丸ごと奪われもした。1933年7月に協会の役員選挙は廃止され、1938年には帝国連盟が会員100万人・45,000ヘクタールを擁する国家組織になっている。
  • 1990年代以降の新しい畑を支えたのは法律ではなく財団だ。1996年にゲッティンゲンで生まれた異文化間菜園は財団連合アンシュティフトゥング&エルトミスの支援を受け、2025年時点で全国400か所を超えた。
  • 本記事の立場はドイツを模範として紹介することではない。200年のうちには接収も飢餓も違憲判決もある。本特集が見るのは「畑が生き延びるためにどんな法と組織と金が必要だったか」である。

はじめに

ドイツの畑が残った理由は法律

数字から入ります。ドイツ小庭園協会連合会(BKD)の集計では加盟する小庭園は867,092区画、面積は合わせて44,000ヘクタール、1区画の平均は370平方メートルです。加盟する協会は13,000を超え、20の州連合にまとまり、加盟する園主は約90万人。都市別ではベルリンが約66,000区画で最も多く、ライプツィヒ約39,000、ハンブルク約32,000、ドレスデン約25,000と続きます。桁が違うのは区画の数だけではありません。これらの区画の大半は地価の高い都市部に法律で守られたまま残っています。線路際や住宅地の縁という一等地に畑が居座り続けている。その理由を風土や国民性に求めても、何も説明したことになりません。

説明は法律にあります。1983年2月28日に制定され、同年4月1日に施行された連邦小庭園法(BKleingG)は小庭園を「営利によらない園芸利用と保養のための庭」と定義し、第3条で1区画の広さを400平方メートル以下、庭小屋を屋根付きテラスを含めて24平方メートル以下と定めました。決定的なのは第5条です。借地料の上限を営利の果樹・野菜栽培における地域相場の借地料の4倍に縛りました。都市の地価がどれだけ上がっても、小庭園の地代は農地並みの水準に留め置かれる。土地の値段と切り離されているから畑は都心に残れます。逆に言えば、この上限を外した瞬間にドイツの小庭園は数年で消えるでしょう。

ただしこの法律は200年の到達点であって出発点ではありません。条文に書かれた400平方メートルという数字は1830年のキールで決まったものですし、解約を禁じるという発想は1919年の法令が最初です。連邦小庭園法そのものも1979年6月12日の連邦憲法裁判所判決(BVerfGE 52, 1)が旧来の小庭園法を違憲と判断したことへの立法府の応答として作られました。守る側の仕組みも、守られる側の畑もそのつど作り直されてきたわけです。つまりこの制度は一度も安泰だったことがありません。畑が200年残ったのは誰かが庭を愛し続けたからではなく、時代ごとに別の仕組みが用意されたからです。各時代の詳細はDay2以降で扱います。今日は道筋だけを渡します。

なぜこの視点か

人物と風景は既刊のとおり。今回の主題は法と組織と金

当サイトにはドイツの畑を扱った探究コラムが二本あります。『ドイツのアーバンファーム事情——シュレーバーの庭から続く150年』は19世紀ライプツィヒのシュレーバー運動から、ラウベ(庭小屋)と庭小人の文化、移民女性が始めた畑、そして「摘んでいい街」までを風景と文化の側から読みました。『ヒトラーとミッゲ——「血と土」の時代の自給菜園』は造園家レーベレヒト・ミッゲ(1881–1935)の生涯と思想を軸に、解放の道具だった菜園がナチスの農本イデオロギーに取り込まれていく転倒を追いました。人物と理念と風景についてはその二本が扱っています。本特集はそこを繰り返しません。

本特集が見るのは四つの装置です。第一に法律。誰が、どの土地を、いくらで、いつまで借りられるかを決める条文。第二に組織。1864年ライプツィヒの最初の協会から、1921年8月21日発足の全国連合、そして現在の13,000を超える協会と20の州連合まで続く、会員制の結社(フェアアイン)。第三に土地とお金。誰が土地を所有し、地代がいくらで、行政がどれだけ負担するか。第四に財団。法律の枠に入らない新しい畑を誰の資金が支えているか。この四つは庭を愛する気持ちとは別の次元にあります。そして、畑が200年生き延びるかどうかを決めたのはこちらのほうでした。

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