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1919年7月31日——飢餓が書かせた小庭園令

ワイマール憲法と同じ日にドイツが手に入れた畑を守る法

2026-09-03 · 18

特集 · ドイツはなぜ「庭の国」になったのか——法・組織・財団が守った150年2 / 7

法の枠で囲われた区画と印章、手前に飢餓の冬を象徴するカブラを並べたリソグラフ風の図

1919年7月31日、ワイマールに集まったドイツ国民議会はワイマール憲法を可決しました。同じ日、同じ議会がもう一本の法律を可決しています。小庭園・小借地令(Kleingarten- und Kleinpachtlandordnung、略してKGO)。帝国法律公報1371頁に載ったこの一本が都市の小さな畑に賃料の上限を与え、貸主からの解約を禁じ、恒久的な小庭園をつくることを自治体の仕事と定めました。名前は「令」です。ただし条文は「憲法制定ドイツ国民議会は次の法律を議決した」で始まります。議会での審議はわずか1か月半。書かせたのは理念ではなく飢餓です。1916年から17年にかけての「カブラの冬」、封鎖下の都市住民の摂取熱量は1日およそ1,000キロカロリーまで落ちています。本記事が扱うのはこの1919年令そのものです。何が条文に書かれ、どんな仕組みが組まれ、誰がそれを運用し、そしてなぜ1983年の連邦小庭園法までこの令が生き延びたのか。

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3分でわかる本記事の内容

  • 1919年7月31日、ワイマール国民議会は憲法を可決し、同じ日に小庭園・小借地令を可決した。帝国法律公報1371頁。議会での審議はわずか1か月半。
  • 令を書かせたのは飢餓である。封鎖で中央同盟国の食料供給は33%減ったとされ、1916/17年の「カブラの冬」に都市住民の摂取熱量は1日約1,000キロカロリーまで落ちた。
  • 仕組みは三つ。下級行政庁が定める賃料上限(第1条)、貸主からの解約禁止(第3条)、そして自治体に恒久小庭園の設置を課し強制借地を可能にした土地調達の規定である。
  • 令が禁じたのは営利目的の総借地である。それまで総借地人が賃料も庭の規約も又貸しの可否もビールの販売許可まで握り、契約はしばしば1年限りだった。
  • 令は1983年3月31日まで63年8か月効力を保ち、連邦小庭園法(1983年2月28日制定)第20条第1項第1号がこれを廃止した。1983年法はこの令の直系である。
  • 本記事が扱うのは1919年令そのもの——条文・仕組み・成立と運用である。1983年法の中身は第5回、ミッゲの庭は明日の第3回に譲る。

はじめに

同じ日に同じ議会が可決した憲法と小庭園令

1919年7月31日という日付はドイツ史ではワイマール憲法の日として記憶されています。国民議会が憲法を可決したのがこの日。大統領エーベルトの署名は8月11日、施行は8月14日でした。同じ7月31日に同じ議会が小庭園・小借地令を可決しています。ベルリンとバイエルンの州連盟はどちらもこの二つを同じ日の出来事として記録しています。偶然ではありません。都市の食料が尽きかけた四年間の記憶が新しい国家の基本法と畑の借地法を同じ夏に押し出したのです。バイエルン州小庭園連盟の記録は議会での審議が「わずか1か月半」で終わったと記しています。当時の政治的圧力の大きさがこの速さに出ています。

昨日の第1回は救貧の庭から共同菜園までドイツ200年を俯瞰しました。今日はその中の一日に降ります。扱うのは1919年令そのものです。第1条から第5条までが何を書いたか、令がどんな役所を生んだか、そして令ができた二年後に畑の側が持った全国組織はどういうものだったか。1983年の連邦小庭園法の中身は第5回の領分なので、ここでは1919年令からの接続だけを示します。

なぜ飢餓が

この法律を書かせたのは理念ではなく封鎖と飢え

連合国の封鎖により中央同盟国の食料供給は33%減ったとされます。1916年秋にジャガイモが凶作となり、それまで家畜の飼料だったカブラ(Kohlrübe)が食卓の主役になった冬が「カブラの冬(Steckrübenwinter)」——1916年から17年にかけての冬です。摂取熱量は冬に1日およそ1,000キロカロリー、1917年夏でも約1,560キロカロリーでした。帝国保健局が健康な成人男性に必要としたのは3,000キロカロリーです。女性の死亡率は戦前比で1916年に11.5%、1917年に30%上がったと記録されています。これが1919年の議員たちの記憶にあった数字です。

都市は空き地を畑に変えました。国も動いています。1916年、帝国政府はベルリンに「小庭園における野菜栽培中央本部」を設置しました。1909年に結成された「ドイツ労働者・シュレーバー菜園中央連盟」の働きかけによるものです。戦時中には複数の緊急令も出ました。借地料の高騰を抑えるもの、都市の土地を園芸生産のために提供させるもの。1919年令はこの散らばった戦時立法を「非営利の園芸的利用」という一つの枠にまとめ直したものです。臨時の措置を恒久の法にしたところにこの令の意味があります。

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